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​由利物語・復刻版

時は戦国時代。

 

群雄割拠する地方では室町幕府の権威など完全に衰退していた。

下克上が相次ぎ、実力をもって主家を滅ぼすこともできた。北出羽(秋田県)では安東氏が北部の比内郡から秋田郡にかけて、東部の仙北郡北浦地方には戸沢氏、南東部の仙北上浦地方には小野寺氏が権威をほこっていた。


しかし南西部は独特の歴史を持つ全国でも比較的珍しい土地であった。その地方は「由利」(ゆり)と呼ばれる。

 

由利は東北でも屈指の米どころで、庄内と秋田の中間点にある。
由利は文献では「由理」「百合」「油理」「湧離」などと表記されるが実際のところは不明である。

 

「由利物語」の表記では、まぎらわしくなるので、現在表記されている「由利」に統一したいと思う。

 

鎌倉時代、由利地方には由利氏と呼ばれる豪族がいて、平泉の奥州藤原氏に仕えていた。だが、奥州藤原氏が源義経をかくまったため義経の兄、源頼朝の怒りをかい頼朝は2万の軍勢を引き連れて実力行使に出る。世に言う「奥州征伐」だ。奥州征伐により奥羽(東北地方)の地図は塗り替えられた。奥州征伐の後、由利氏は源頼朝に心服し所領を安堵された。
 

しかし1324年(正中元年)に由利氏の当主、由利仲八郎政春が庄内の鳥海弥三郎に攻められ自害すると、由利地方は無統治状態になり横行略奪が相次いだ。
そこで前郷村(現・秋田県由利本荘市前郷)の農民が集会を開き鎌倉に赴き関東管領・扇谷上杉氏の家宰・太田道灌を通じ領主を求めたところ信濃国(長野県)の小笠原一族が由利に派遣された。

 

これが「由利十二頭」(ゆりじゅうにとう)である。
これから語る御話は由利十二頭を中心としていく。
安東愛季、最上義光、大宝寺、小野寺、本庄・・・そして豊臣秀吉、徳川家康。由利十二頭はこれらの勢力に介入されようとも屈せず自分たちの「国」を目指した。
という無情な時代を駆け抜けた由利十二頭に迫る。

 

第一章:出羽国下向
 

由利十二頭の面々について、「由利十二頭記」には、「矢島(やしま)・仁賀保(にかほ)・赤尾津(あこうづ)・潟保(かたのほ)・滝沢(たきざわ)・打越(うでち)・下村(しもむら)・玉前(とうまい)・沓沢(くつざわ)・子吉(こよし)・鮎川(あゆかわ)・羽川(はねがわ)・石沢(いしざわ)の諸氏」となっている。

 

しかし豊臣政権で由利五人衆となり山形の最上義光(もがみよしあき)の臣となった岩屋氏が抜けている。岩屋氏は由利十二頭の中でも重要な役目にあった。

尚、沓沢氏は「矢島史談」によると矢島氏の客将のために由利十二頭とは考えられない。

 

ここで私は由利十二頭を「矢島氏、仁賀保氏、赤尾津氏、潟保氏、滝沢氏、打越氏、玉前氏、岩屋氏、子吉氏、下村氏、鮎川氏、羽川氏、石沢氏」と決めた。さらに由利衆を十二頭に加え「淵名(ふちな)、芹田、平沢、大泉、沓沢、根井(ねい)、川大内」ということにしたい。
 

由利十二頭は由利仲八郎の末裔の滝沢氏や、新田氏の末裔とする羽川氏以外全て信濃の小笠原一族である。
小笠原一族は室町幕府の命を受けて、北出羽に下向した。なにしろ由利十二頭の資料は「由利十二頭記」に書かれているが、その原本は紛失したため、記述が少ないのである。
由利に信濃の小笠原一族が下向したのは応仁元年であるという。

・小笠原大和守重挙(仁賀保町院内に赴任し仁賀保氏を称す)
・海野弥太郎(西目町潟保の斎藤家の名跡を継ぎ潟保氏を称す)
・子吉修理進(本荘市の子吉川下流域に居す)
・赤尾津孫八(岩城町高城山に居して小助川氏とも言う)
・羽根川孫市(秋田市下浜付近に居し、羽川氏とも言う)
・芹田伊予(仁賀保町芹田あたりに居す)
・岩屋右兵衛(大内町岩谷に居す)
・打越左近(本荘市北打越に居す)
・玉米刑部(東由利町館合に居す)
・石沢孫四郎(本荘市石沢に居す)
・下村信濃守(東由利町蔵に居す)
・鮎川小平太(由利町鮎川に居す)
・滝沢刑部(由利町前郷に居し、由利氏の末裔)
・大井義久(矢島町に居し、矢島氏とも言う)

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第二章:庄内大宝寺氏と由利衆

 

1568年(永禄十一年)庄内尾浦城主、大宝寺義増は越後村上の本庄繁長や甲斐の武田信玄と盟約を結び、越後の雄、上杉謙信に相対した。しかし、謙信の勢力は阿賀北(現在の新潟市以北)更には海路庄内にまで及ぶようになった。 


義増は繁長らとの盟約を離反し、単独で謙信に対する講和を決意する。 謙信は、大宝寺家に「五箇条の条件」を突きつけ、土佐林禅棟を証人にするようにいいつけた。土佐林氏は大宝寺氏と同じ、庄内で羽黒山の別当職を兼ねている有力な国人である。 


この騒動をきっかけに義増は息子の義氏に家督を譲った。後見役には、禅棟が据えられた。 
 

この頃、霊峰鳥海を隔てた北の地「由利」では仁賀保氏と大井氏の抗争が続き泥沼化。永禄初期から始まったこの抗争の原因は農民の領土問題である。 
禅棟は仁賀保氏支援を表明。腹心の竹井時友や観音寺城主(現・山形県八幡町)の来次氏らを仁賀保に派遣した。 
大宝寺氏と土佐林氏は同じ庄内の国人という立場であり親密な関係を保持していたように見られるが、1570年(元亀元年)土佐林氏と通じた越後の国人、大川氏が尾浦城近くまで侵入し狼藉を働いたことから両者の対立は激化した。

 
同年九月、ついにこの騒動を見かねた謙信が調停に入り、義氏、禅棟は和睦。しかし、禅棟の腹心の竹井時友が尾浦城下に放火するという騒動が勃発し両者の緊張は続いていく。
「由利」と「庄内」で繰り広げられる抗争。全く関連性のないように見えるが、実は「由利」「庄内」が親密だからこそ勃発したものである。


大宝寺氏は義増の頃より、由利の鮎川氏を中心に積極的に由利十二頭の取込を画策していた。矢島の大井氏や根井氏などがこれに同調し、大宝寺氏と親密になった。大宝寺氏が大井氏を支援し土佐林氏が仁賀保氏を支援するという風に、庄内における抗争が由利における抗争となっていたのである。 
 

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鮎川氏の居城の「山崎館」(秋田県由利本荘市鮎川)


1571年(元亀二年)庄内の国人、来次出雲守は由利十二頭に対し尾浦城への出仕を促した。来次氏は当初、土佐林寄りに見えたが、禅棟の相次ぐ庄内を混乱させる行為に失望し、大宝寺義氏に属したと見られる。
 

この前後、土佐林一党は和睦を再三破り反抗。ついには尾浦城近郊の谷地館に篭り義氏に反旗を翻した。この反乱に痺れを切らした義氏は出兵し、篭城軍全軍を討ち取った。その後、禅棟の居館、藤島城(現・山形県藤島町)も落城し、義氏は弟の丸岡義興を配置する。
 

さて、来次出雲守の勧告に由利衆は反感を抱いたが、大宝寺義氏の勢力は膨大で勧告に従うしかなかった。その裏で密かに反大宝寺の庄内の国人、前森蔵人(酒田城主)や禅棟らと接近していく。
 

このような緊迫した状態が十年も続いたが、1582年(天正十年)の段階で下由利の岩屋氏が義氏の傘下に入った。しかし、由利衆の中でも荒沢(現・由利本荘市新沢)城主の小助川図書だけは義氏に従わなかった。一説によると、この頃に秋田郡を治めていた安東愛季(あんとうちかすえ)と手を結び大宝寺義氏の侵攻に備えたとも考えられる。


1582年(天正十八年)3月、大宝寺義氏は小助川氏を討つべく大軍を率いて武力行使に出る。しかしこの頃、大宝寺領境の間室(現・山形県真室川町)に山形の最上義光(もがみよしあき)が侵攻。義光は小野寺氏から寝返った鮭延典膳に庄内国人の調略を指示した。
 

しかし、義氏の眼はあくまでも「北」を向いていた。義氏は仙北(現・秋田県南東部)の小野寺氏などの諸将に最上領に侵攻するように依頼すると同時に、津軽の大浦為信(後の津軽為信)に安東領への侵攻をも依頼した。愛季を津軽に出兵させ、由利に出陣させないためである。
 

由利へ進出した義氏は滝沢城(現・由利本荘市前郷)を攻略し大井、打越氏らを降して岩屋氏を降した。さらに岩屋(現・由利本荘市岩谷麓)で軍勢を二手に分けた。一方は小助川図書の居城荒沢館へ、もう一方は岩屋の折渡峠を越え赤尾津郷(現・由利本荘市岩城町亀田)へ軍勢が展開された。
 

城を失った岩屋氏の残党は大宝寺勢の攻撃に手も足も出ず折渡峠の「洞窟(現在は千人隠れ)」に隠れる。しかし、米のとぎ汁が下流の芋川に流れ出して、大宝寺勢に居場所が発覚してしまう。大宝寺勢と岩屋の残党は壮絶な死闘を繰り広げ、運良く生き残ったものがは赤尾津氏の軍勢に合流する。
 

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​千人隠れ(由利本荘市岩谷麓折渡)

赤尾津家当主、赤尾津治部は小助川図書の主家でもあり、由利十二頭の中でも下由利に位置していたため安東氏と親交を結んでいた。

この頃、義氏勢は折渡峠と荒沢館の中間地、筵掛(むしろかけ)権現堂に陣を張っていた。筵掛権現は岩屋、赤尾津、荒沢の諸砦を眺められる軍事的要衝であった。防ぎきれなくなった、赤尾津治部、小助川図書から援軍要請を受けた愛季は下由利に一部式部を総大将とする軍勢を派遣した。


安東愛季は当時一族をまとめあげ、比内の浅利勝頼や阿仁の嘉成重盛らをを傘下に組み込み、陸奥の南部晴政と戦い鹿角郡(現・秋田県北東部)を手中に治めた。北の勢力を一掃した愛季の目標は由利であった。先にも述べたように、小助川、赤尾津諸氏を中心に由利に進出しようとしていた。今、ここで援軍を派遣し義氏を放逐すれば由利衆の心がつかめると考えたのであろう。


愛季の援軍派遣により一気に形勢は逆転し、同年七月に大宝寺勢は引き上げた。由利十二頭はこれ以降、安東氏との親交を深めていく。

第三章:仙北小野寺氏の脅威

 

大宝寺氏が由利から撤退し由利の土地に一時ではあるが安寧の時期が訪れた。しかし、由利の東隣の小野寺輝道が1582年(天正十五年)の春に上洛することになり、留守を嫡子の孫十郎(後の小野寺義道)に預けた。孫十郎は父不在の万全の策として、由利の諸将から人質を取った。


由利十二頭の諸将はその命令を受け、一族を人質として小野寺氏の居城、横手(現・秋田県横手市)に差し出した。
この頃、秋田の安東愛季と仙北小野寺氏との関係が不和になり、愛季は雄物川筋の交易路を封鎖した。これにより、小野寺氏の交易は制限され物資が滞った。

 

由利十二頭はこの年の春に、安東愛季の手を借り大宝寺勢を追い払った経緯から、安東方に交友関係のあるものが多かった。
石沢(現・由利本荘市石沢)の石沢左衛門の母親は「自分たちが人質に捕られているから、思うように手も足も出せない。このままでは安東家に対し申し訳が立たないだろう。私たちは自害するので小野寺を討ってくれ・・・」と本国に密使を送り五人の幼童とともに横手城下で自害した。石沢の母に次いで、他の人質たちも相次いで自害した。


この報せを受けた由利十二頭らは涙を流し石沢の母に報いた。そして一致団結し、弔い合戦ということで決起した。
出陣した由利勢は、赤尾津治部、孫四郎、打越孫次郎、民部、仁賀保治重、八郎、芹田十内茂清、岩屋小三郎、石沢左衛門尉、滝沢刑部、淵名ト春斎、孫三郎、小平太、小助川与一、到米式部、孫介、下村彦次郎、潟保治部、根井縫殿介、羽川金剛丸、沓澤、平沢、子吉、大泉の諸氏の総勢五千。
1582年(天正十一年)8月21日のことであった。

 

思わぬ事態であったが、孫十郎は動じず「由利勢など恐るるに足らん。その者どもを討てい。」と言い放ち、小野寺孫五郎、西馬音内茂道、山田孫兵衛尉、孫八郎、河連蔵人綱道、稲庭甲斐守、西野道房、吉田孫一、湯沢孫七郎、関口能登守、三郎、小笠原春道、三梨太郎左衛門、増田播磨守、落合伝内、岩崎河内守、柳田、鍋倉、御返事、馬鞍、黒澤、浅舞、八木、相川、飯詰、久米、熊谷、樫内、金沢、六郷、北浦氏に戸沢盛安の援軍を加えて総勢八千人を由利境に向かわした。
 

両軍は由利、仙北国境付近の仙北大沢山(秋田県雄物川町沼館)で激突した。世に言う「大沢山合戦」である。

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大沢山付近の小野寺氏の支城の沼館城(秋田県横手市雄物川町)

 

孫十郎は血気はやり自らが戦陣に立ったが、家臣の関口三郎に「大将としてははしたなき御振舞いでござるぞ。味方が敗れそうなときこそ先頭に立って味方を鼓舞するものですぞ。」と諌められた。

 

しかし、三千も兵力差のあるのに負けるはずがないと思った孫十郎は聞き入れず先頭に立った。豪傑として名高い岩屋、赤尾津、打越ら由利の諸氏は弓を用いて小野寺勢に襲い掛かった。思わぬ不意討ちで小野寺勢は手痛い打撃をあたえられる。しかも孫十郎の本陣が前線にあるので由利勢の放つ弓のかっこうの餌食となっていた。

 

寄せ集めの小野寺勢に対し、一致団結の由利勢。孫十郎を守ろうとした吉田源蔵らの老将も突撃を繰り返したがついに討ち死にしてしまう。錯乱した孫十郎は「もはや敵に突撃し討ち死にあるのみ・・・!」と覚悟したが、一門の河連蔵人に諌められ我に返った。

 

猛攻の由利勢の前に殿の小野寺家臣の金弥右衛門尉と院内兄弟が命懸けで防戦した。三人はまだ若かりし十六歳。弟の院内鶴若丸は、鮎川氏郎党、西沢左門の放つ矢を具足で受け、由利勢の士気が怯んだすきに兄の五郎と金弥が応戦して見事に殿を務めた。

 

この合戦での戦死者は由利勢が五十余名、小野寺勢が四百八十名であった。孫十郎は命からがら仙北横手に帰陣。人質に取っていた大井、到米、下村の諸氏を殺しても益がないと考えてこの三者に人質を丁重に送り返した。以来、この三者は由利衆の中でも親小野寺派として度々登場している。さらに矢島の大井氏は西馬音内小野寺氏と姻戚関係を持った。

 

これと前後して、庄内の大宝寺義氏が小野寺孫十郎に安東領への出兵を促したが、壊滅した小野寺の兵力では出兵どころではなく、孫十郎はわざわざ愛季に侵攻することのないことを強調する書状を送っている。愛季はこれを承知した上で、裏では小野寺氏に対して不審を抱く仙北の国人の調略を開始した。

 

中でも六郷城主(現・仙北郡美郷町)の六郷政乗と親密な関係を持った。政乗は北浦の戸沢盛安や山形の最上義光とも親交を深める先見の明がある男だった。しかし、政乗の年齢はまだ10歳。後の話になるが彼はこの数十年後「由利」の地で幕藩体制下の本荘藩を築くのである。
 

第四章:庄内大乱

 

翌年、再度庄内の大宝寺義氏が由利郡に侵攻してきた。大宝寺勢は再度、小助川図書の居城の荒沢城を攻撃したが、由利衆は安東愛季との連携で万全な守備体制を築いていた。1月ということもあり、庄内勢にとっては雪中行軍だった。雪の中、死闘が繰り広げられ、死骸は対峙していた芋川(現・由利本荘市新沢)を埋めて水が逆流した。現在、この地は「返り瀬」と呼ばれている。大宝寺勢は雪中行軍がたたって長対陣できずに撤退した。


度重なる義氏の出兵に、庄内の民衆はもう耐えられなくなっていた。おまけに、内政をせず趣味にふける大宝寺義氏は「悪屋形」と名づけられていた。
 

1583年(天正十一年)に酒田城主の前森蔵人はついに謀反を決意する。最上義光を背後に、蔵人は庄内の国人衆と一致団結して軍勢を尾浦城下に差し向け放火した。義氏は覚悟を決め、自害した。
 

義氏の後継は藤島城にいた丸岡義興が尾浦に入り、大宝寺家を継いだ。蔵人は東禅寺城に入城し、東禅寺筑前守義長を名乗り大宝寺家の家老となった。しかし、庄内の混乱は収まらずに庄内国人の外部勢力との結託が進み、東禅寺と義興の対立は激化。寄せ集めの国だけに崩壊は誰の目から見ても明らかだった。


義興は越後の本荘繁長に、筑前は最上義光に接近した。最上を統一した最上義光の狙い目は「庄内」であり、筑前にしても義光の意向なしに、庄内の統治は不可能であった。
由利衆の岩屋朝盛は義氏亡き後、筑前に接近し、饗応を受けている。翌年、大宝寺義興は大軍をもって最上の清水城を攻撃した。これの報復として、ついに東禅寺筑前は反乱を起こす。これに応じた義光は庄内方の来次出雲守が篭る観音寺の砦を攻撃した。

 

大宝寺義興は、越後の上杉景勝、本庄繁長らに支援されつつ庄内を防衛した。また、最上の同盟者、伊達政宗(米沢城主)にも依頼して最上の庄内攻めを阻止すべく奔走した。
これが功を奏したのか、政宗の仲介で大宝寺、最上の和議が成立した。しかし、この和議が長続きするはずもなく、1587年(天正十五年)には和議は破棄され再び、東禅寺筑前は反乱を起こした。

 

義興は伊達、上杉に支援を求めたが、政宗は会津平定、本庄は阿賀北で謀反を起こした新発田重家の軍を鎮圧するため最上どころではなかった。
天は最上義光に味方した。山形を発ち、六十里越峠を越えて庄内に最上の旗がはためいた。大宝寺義興は自害した。
仙北の小野寺義道(孫十郎)は最上と宿敵関係にあったにも関わらず、庄内攻略を祝して名馬を山形に贈った。これに義光は伊良子大和守を横手に遣わして、答礼した。

 

しかし、新発田重家攻略をした本庄繁長は自らの次男、義勝を「大宝寺家当主」に掲げ、庄内に進軍を開始した。最上義光は東禅寺筑前を庄内の旗頭にすると同時に、自らの腹心、中山玄蕃を派遣した。義光は庄内における由利十二頭の必然的存在を認め積極的に外交していくのである。

第五章:仙北前田氏との抗争

 

これよりかなり前の話だが、仙北大曲に前田道信という国人が居て、弓使いの名人であったといわれている。しかし、1532年(天文元年)に由利十二頭の赤尾津氏と羽川氏によって討たれた。

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羽川氏の居城「羽川新館跡」(秋田市下浜羽川)

 

兼ねてより仙北前田氏は赤尾津氏や羽川氏と因縁の中であり、戦が絶えなかった。ところで、非業の死を遂げた道信には五人の息子があって、嫡男の又太郎は父の死後、仙北前田家の当主となった。又太郎は文武に優れ、民、百姓から慕われる名君であったという。

ところがある日、上方浪人と名乗る五十棲六十郎(いおづみろくじゅうろう)というものが大曲を訪れ、日々、情勢の変わる「畿内」の事情を又太郎に話し、上洛の必要性を説いた。
畿内に興味を抱いた又太郎は後事と大曲の城を弟たちに託して、六十郎とともに上洛した。次男の又次郎(後の薩摩守利信)は父の敵も討たず上洛した兄を恨んだ。


1541年(天文十年)に戸沢氏配下の小笠原氏(楢岡城主)、刈和野氏、荒川氏、六郷氏らと密約を結んで、由利対策に利信(又次郎)は奔走する。1572年(元亀三年)に赤尾津左衛門尉を討ち、翌々年には羽川次郎を討ち取った。

 

この頃、上方では織田信長が畿内を平定して天下に覇を唱える勢いであった。いくら奥羽の僻地とはいえ天下を無視できないということで、利信は主家である戸沢盛安の名代というこで小野寺輝道や安東氏の名代とともに上洛した。


このことを知った、羽川次郎の子の金剛丸(後の義種)は闘志を燃やした。父を討たれ、戦に決着をつけたい金剛丸は16歳。赤尾津治部とともに由利衆に参戦を呼びかけた。由利勢は数ヶ月前に小野寺氏との大沢山合戦に勝利し士気が高かった。
その後、羽川金剛丸は前田五郎(利信の末弟)と一騎討ちをしてこれを討ち取った。これを機に由利勢は士気が上がり、ついに打越孫次郎と羽川金剛丸は本丸に一番乗りを果たした。前田方の総大将は留守居の前田又四郎(利信の弟)であったが大曲城に火をかけて兄(神宮寺掃部)のいる神宮寺を目指して落ちのびた。

 

大曲城落城である。
故郷での変事を何も知らない、利信は上洛し、戸沢氏の名代という身分も忘れ、織田信長に「仙北大将」と自分が仙北の主のように振舞った。信長も嘘とは気づかず信じ込み、この数ヵ月後、本能寺の変でこの世を去る。
しかし、帰国して居城の落城を知るや利信は愕然し、弟の神宮寺掃部を頼り、神宮寺で生涯を過ごした。また御家再興の運動も盛んに行ったが戸沢氏の信用も薄れ、家名再興は許されなかったという。
現在、利信は「東北で唯一、信長を騙した男」として知られている。尚、大曲城の場所すら特定されてない。

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大曲城一番槍の打越宮内少輔の居城「平岡館」(秋田県本荘市北内越)

第六章:唐松野合戦から湊合戦

1587年(天正十五年)、安東愛季が戸沢盛安と戦っている最中に病死する。


由利十二頭の後ろ盾でもあり、秋田(北出羽)の覇者でもあった安東愛季が49歳で死去した。近隣諸国からは「斗星の北天にあるにさも似たり」と恐れられていた。

愛季は、宿敵南部氏や、南の小野寺氏、戸沢氏、大宝寺氏を敵に回して生涯戦いにあけくれていた。そして天下人「織田信長」に接近したり、湊(現・秋田市土崎港)を中心に貿易で莫大な富も築き上げた。
安東方ではいつ戸沢の軍勢が攻撃してきてもおかしくない状況であった。そこで由利十二頭の赤尾津治部が抜擢された。赤尾津治部はこの大役を果たして淀川城(現・秋田県仙北郡協和町)を戸沢に返すということで話がついた。
しかし、愛季の次男で後継の実季(さねすえ)はまだ12歳。実季は自分では政治はできず家臣が政治を行っていた。


ところが、愛季の死を知った宿敵の小野寺義道(横手城主)は愛季の家臣だった鶴舞城主(現・秋田市太平目長崎)、永井広治や愛季の甥の豊島道季らが一致団結して実季に反旗を翻した。時にして、1589年(天正十七年)2月のことであった。
旧愛季の家臣は反乱軍(道季や永井勢)に加わるか実季につくか選択を強いられた。
竹鼻伊予や中津川駿河などは妻子を湊城に置き去りにして檜山城の実季に忠誠を尽くした。これに一門筆頭の安東相模や米内沢城主(秋田県森吉町)の嘉成播磨(重盛の一族)も参戦した。しかし反乱軍の永井、道季勢は実季の十倍の軍勢。とても実季勢に勝ち目はなかった。実季は落ち延びて居城、檜山城に篭城する。檜山方の実季軍は鉄砲300丁を駆使して十倍の反乱軍と戦っていた。状況は苦戦。敗北は時間の問題だった。


そんな時代、由利十二頭は越後の本庄繁長の配下だった。実季は繁長に由利十二頭を動かしてもらおうとたくらんだ。岩屋氏、赤尾津氏にとって大宝寺義氏の侵攻を食い止めた愛季には恩があった。この二者を中心に抗争中の矢島、仁賀保両氏も加わり一致団結して実季に味方することを誓った。反乱軍にとって土崎湊に思いもよらぬ敵勢が来襲した。


「由利十二頭」である。
赤尾津治部、打越孫次郎、岩屋朝祐、羽川小太郎などの猛将が突撃をかけてきた。反乱軍の大勢は北の檜山城にそそがれ、南はがら空きだった。南方での苦戦を耳にした反乱軍は檜山から撤退。実季勢はこの勢いの乗じて背後から反乱軍を襲撃した。
両軍の一進一退の攻防戦の繰り広げられる中、六郷城主(秋田県六郷町)の六郷政乗(ろくごうまさのり)が両軍の和睦に乗り出した。政乗は小野寺氏を説得し、赤尾津治部は実季を説得した。
小野寺、戸沢両氏はこの安東氏内紛から手を引いた。後ろ盾をうしなった湊道季は敗走して南部領に落ち延びた。
由利十二頭の活躍により実季は一命を取り留めた。この後、実季は「秋田実季」を名乗り愛季の後継として磐石な体制を築いていくのである。

第六章:農民関白

1582年(天正十年)に天下人「織田信長」が本能寺に倒れると、家老の羽柴秀吉が安芸(現・広島県)の毛利輝元と講和を結び見事に実権を握った。農民から天下人になった日本史上類を見ない出世であった。
 

その秀吉は関白となり豊臣秀吉と称し日本の半分を平定した。そして最後まで抵抗しつづけた関東の北条氏を降して会津(福島県会津若松市)まで出陣して「奥州仕置」を発令して検地を実行した。
 

仙北・由利の検地を命じられたのは上杉景勝であった。景勝は上杉謙信の養子で、その軍勢は戦国最強といわれていた。
検地の副将には大谷吉継が選ばれた。大谷はハンセン病に感染していたが、秀吉にその才能を認められて越前敦賀に所領を与えられている出生人であった。
しかし奥羽の検地はそう簡単には進まなかった。仙北地方では、住民との間に殺傷沙汰が起こると一斉に農民が蜂起した。この一揆勢の中に仙北角館城主戸沢盛安の兄の盛重(盛安に謀叛を起こした)もいたという。この一揆はなかなかおさまらず大森(秋田県大森町)に駐留していた上杉景勝自ら出陣するに至った。由利からも援軍が多数、仙北に導入されている。
出陣とは裏腹に仙北地方に広がった一揆は由利、庄内にまで広がった。この騒ぎで前田利家が赤尾津郷まで出陣している。この一揆は隣国の和賀、稗貫地方にも広がって多数の死傷者を出した。
一揆が落ち着くと秀吉から由利十二頭に所領安堵の朱印状が出された。

第七章:大井氏と仁賀保氏の因縁

 

話しはさかのぼり1559年(永禄二年)に滝沢氏領と大井氏領(矢島氏)の百姓の間でカヤ刈り場の境で争っていた。
矢島氏の家臣の根井氏は、親しかった秋田郡の浪人の沓沢某というものが矢島に来訪したとき主家の大井五郎(満安)に紹介して沓沢は大井氏の客分となり待遇を受け、所領を得て中山の沓沢館に居した。

 

大井氏はカヤ刈り場のこともあり、滝沢兵庫頭を攻めようとしていた。しかし沓沢は大井五郎の恩義を忘れて滝沢氏に寝返った。大井五郎は大いに怒り、大河原普玄坊と佐藤筑前を派遣して滝沢氏を攻めた。
滝沢氏はかつての郡司由利氏の末裔でありながらも弱小国であったため、隣国の大国の小笠原一族の仁賀保明重に援軍を要請した。
1560年(永禄三年)ついに釜ヶ淵で両軍の戦闘が生じた。大井五郎は武勇の誉れ高く、見事に殿を務め撤退した。
滝沢と大井氏の対決が仁賀保と大井氏の対決となっていくのである。
大井五郎は北隣の玉米氏との対立が深まった。仁賀保明重は大井五郎の専横が許せず一気に滅ぼそうともくろんだ。

 

1574年(天正四年)、明重は玉米とともに矢島へと攻め込むが謀略に長けた五郎は事前に察知。五郎の謀略にはまった明重は矢島へ深追いしすぎて戦死した。
仁賀保氏は明重の次男安重が当主となったが、これも大井五郎によって簡単に討ち取られてしまった。
安重が死去したとき、仁賀保氏からは嫡流の血筋が消えた。後継には一族の治重がなった。
治重は矢島領にたびたび攻めこむも、仁賀保に軍勢を引き上げた。


大井五郎は今度こそ戦に決着をつけようと仁賀保氏家臣団の切り崩しを図った。切り崩しは成功して土門、小川、孫という仁賀保の家臣が五郎に内通した。五郎はじらしにじらして仁賀保への進軍を自重した。
 

すると次第に「仁賀保の家臣が矢島(五郎)に内通している」という噂が立った。この噂に慌てた三名は仁賀保治重を暗殺した。この変事を聞いた、仁賀保の忠臣、数百人が土門、小川、孫の館を襲撃して討ち取った。仁賀保の頭領は、明重、安重、治重と三代も大井五郎という一人の男の手にかかって死んでいる。
 

いったい大井五郎とはどのような男だったのだろうか。
「矢島史談」によると、身の丈「六尺九寸(2メートル弱)」で顔面は熊のような毛に覆われ、大なる食器で五、六人分の食事をとったといわれている。

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大井五郎が愛用していた茶釜と五郎の肖像画(由利本荘市矢島町・郷土資料館蔵)

第八章:五郎参上

 

当主をうしなった仁賀保氏の遺臣は、山形の最上義光へ相談した。義光は由利の赤尾津道俊の次男を勝俊とさせて仁賀保家当主に押し立てた。このあたりから由利郡に最上義光の力が及んできた。実際、滝沢氏の嫡子が義光に仕えていた。


仁賀保勝俊は、大井五郎と和睦を結ぶ策に出た。持久戦に持ち込もうという策である。五郎もこれ以上戦っても無意味だと考えて和睦に応じた。しかし、大井五郎が杉の盗伐をしていた仁賀保の者の首をはねて仁賀保領との境の「ブナノ木モチ」という場所にさらし首にしたことから和睦は崩壊。
激怒した勝俊は、実家の赤尾津や子吉、滝沢らの由利衆とともに「ブナノ木モチ」近くの「割り石」というところまで進軍した。五郎もいち早くかけつけここで激戦が展開された。仁賀保勢はいつものごとくさんざんに打ち立てられた。
この戦闘の最中に、禅林寺(仁賀保家菩提寺)と高建寺(大井家菩提寺)の僧が仲介に入り和平の必要さを諭した。
しかし、五郎はうけいれず大井家老臣の意見を聞いて矢島に引き返したといわれている。両家菩提寺の僧に仲裁を頼んだのは、岩屋、打越、潟保、鮎川であったという。1589年(天正十七年)仁賀保勝俊は矢島に攻め込んだ。六度目の戦である。

 

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大井氏が創建した「矢越八幡神社」(秋田県由利本荘市矢島町矢越)

 

勝俊は、矢島の八越八幡社に陣を張った。ここは大井家が武運長久を祈った「信州下向以来」の信仰している神社であった。
そうともしらない、勝俊は社人が清めて使っている「湯立ての釜」で馬のえさを煮立て食わせた。
ところが、それを食した馬の口が腫れて「轡(クツワ)」をつけることができない。気味悪くなった勝俊は全軍撤退を命じて帰郷した。
五郎が八越八幡社に着陣すると、仁賀保勢はも抜けの空だった。

同年8月3日、大井五郎は仁賀保の居館付近まで攻め入るが、老臣の諌めを聞いて撤退。「釜ヶ淵」近くまで後退したとき仁賀保勢に包囲されていた。
このとき、五郎の側には金丸帯刀ただ一人であり五郎をかばって敵陣に突撃して討死した。
この光景を見た、五郎はおおいに怒り名馬「八升栗毛」の馬上から七尺のカシの棒を振り回し敵陣に突っ込んだ。

 

しかし、淵に馬もろともはまった五郎めがけて仁賀保勢は散々に鉄砲、弓を射掛けた。
五郎の救援に相庭市左衛門、小番喜兵衛、金子尾張らの家臣が五郎を救った。しかし、淵にはまりもがいている「八升栗毛」を五郎は甲冑を脱ぎ捨て抱きかかえて仁賀保勢に突撃する勢いをみせた。
家臣の新田民部が馬の口を押えて、諌めた。五郎も負けじと民部の兜を打って抵抗したが、家臣全員が民部に同調して無理矢理五郎を矢島に退かせたという。

 

そんな五郎に山形の最上義光から書状が届いた。
山形へ参陣せよとのことだ。これは仁賀保氏や岩屋氏が義光に五郎の悪行を讒訴したとき、義光が五郎の暗殺を約束した結果であった。五郎は、そのことを前々から察知していたため「病気」と偽って山形行きは中止された。


しかし、そのうちまた書状が届いた。
その内容は去年、小田原征伐の折に、義光(自分)が太閤殿下に五郎の武勇を語ったところ
殊のほか感銘を受け、京都で殿下に謁見させたいということであった。五郎は上機嫌ですぐさま、山形へ出立した。留守居には舎弟の与兵衛、根井右兵衛尉、小助川摂津らが任された。
1591年(天正十九年)11月5日の事であった。五郎と謁見した義光は仰天した。

 

その風貌と気骨に。5、6人分の食事を一気に平らげ、鮭の丸焼きを一匹丸ごと平らげたのである。義光は五郎を殺すどころか、五郎に惚れてしまった。そのうえ、五郎を由利の旗頭にすると約束した。仁賀保、岩屋の諸氏は予想外の展開に動転した。
 

そこで、由利の諸将は五郎不在の留守居役の大井与兵衛と根井右兵衛尉に謀叛を起こさせようとたくらんだ。早速、仁賀保家臣、成田忠左衛門が根井の館を訪れて談合に及んだ。
 

大井氏の国人的家臣の根井右兵衛や、兄に対して疑念を抱いていた与兵衛は謀叛を決意した。

第九章:矢島の変

 

与兵衛と根井は50~60名の兵を集めて、五郎の嫡子を殺害した。この騒動に驚愕した小助川摂津は五郎の室(西馬音内茂道娘)とその娘、お鶴を輿にのせて西馬音内に落ち延びさせた。驚いた、西馬音内茂道(小野寺家臣)は至急、山形の五郎のもとに書状を書いた。


このとき、五郎は山形を経ち矢島に向かっていた。しかし、年も暮れようとしていたこの年は豪雪。腸が煮えくりかえる五郎は、北羽国境で雪に阻まれてカンジキをはいて至急、矢島に引き返した。
五郎が山形を経って7日後。腹心、金子安倍の進言を受け入れた五郎は矢島領の最奥、猿倉に潜伏していた。
忠義に厚い、猿倉の領主、猿倉平七は喜んで五郎を迎えた。謀叛に加わった者も、五郎が猿倉に潜伏していることを知るや五郎のもとに馳せ参じた。
1591年(天正十九年)12月18日。豪雪の中、五郎は矢島攻撃に打って出た。その日、天気は吹雪きと化し民は家に篭っていた。

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根井氏の菩提寺「正重寺」(秋田県由利本荘市鳥海町中直根)
 

予想外の行軍に、謀叛勢は不意を討たれた。謀叛勢の中には五郎と相対できる、小番喜兵衛や張本人の与兵衛らがいたが、五郎の武力の前にはなすすべもなかった。
こうして、矢島の変は集結したが、五郎にとっては複雑な心境であっただろう。

 

第九章:五郎滅亡

 

翌年、年号は天正から文禄となった。太閤秀吉は朝鮮、明、天竺を征伐すると陣触れを出した。文禄の役(第一次朝鮮出兵)である。この触れに由利の諸将も同調して仁賀保勝俊が出陣した。しかし、五郎は昨年のこともあり矢島にとどまった。しかも、上洛の使者すら出さなかった。
 

仁賀保氏や岩屋氏は五郎征伐の計画を立てた。それに由利十二頭全員が同調した。五郎の横暴には誰も味方する者はいなかった。
五郎の家臣は上洛して、仁賀保らの所業を讒訴すればよいと進言したが、五郎にその気は毛頭無かった。しかも居館を難攻不落な荒倉館に移すことを決めた。
「矢島の変」の後、五郎の何かが変わった。活気というのか。生きる気というのか。
同年、7月25日。由利十二頭連合軍は五郎を討つべく矢島を包囲した。27日には総攻撃が開始された。五郎の配下からは寝返るものが多く五郎の敗色は確実であった。

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大井氏の山城、「荒倉の砦」(秋田県由利本荘市矢島町)
 

その日の朝・・・
荒倉館大手門より総攻撃をしていた十二頭連合軍の目に八升栗毛にまたがる騎乗姿の五郎の姿が映った・・・五郎はカシの棒を振りかざし縦横無尽に暴れまくった・・・死に場所を求めるかのように。

 

十二頭連合軍は五郎を恐れて四散。
五郎の前から敵はいなくなった。その光景を確認するや否や五郎は城中に引き返した。連合軍の死者は200余名。しかし、五郎の兵力はほとんどなかった。家老、矢島三右衛門の進言を受け入れた五郎は西馬音内の養父を頼って落ち延びることにした。

 

津雲出て 矢島の沢を眺むれば 木在杉沢 小夜の中山

五郎の臣、柴田、半田という者が五郎の室と娘のお鶴を引き連れて矢島を脱出した。しかし、敵に気付かれて追撃された。室は無事に西馬音内に落ち延びたが、お鶴は乳母の手に抱かれたまま消息を絶った。
 

一方、五郎は敵方、赤尾津治部が固める山の手から脱出を図る。五郎一門、30余名との行軍であった。しかし、これも敵に阻まれ五郎らは四散。
仙北に入った頃には、五郎に従うもの矢島三右衛門一名であったという。西馬音内にたどり着いた、五郎は山中で別れた小番河内と合流。河内は深手を負っていた。

 

西馬音内茂道は思慮に富んだ男で、五郎に無念を深く察した。しかし、小野寺義道留守中の家を預かる茂道には兵を挙げることは武士道にあるまじき行為であった。茂道は義道の帰国を待った。

 

肥前、名護屋から一時帰国した仁賀保勝俊は五郎の滅亡や、茂道が五郎をかくまっていることを聞いた。
そのうち、小野寺義道が五郎の復讐を名目に由利に攻め込んでくるのを恐れた、滝沢又五郎は計略を打ち出した。小野寺と親交の深い、下村蔵人や玉米信濃守を使者として義道のもとに派遣して虚報を流した。義道は五郎と茂道が謀叛を企てていることを正気にして、弟の大森康道に800の兵を与えて西馬音内を攻撃させた。

 

しかし、康道はこの事に対して納得がいかず、攻撃前に茂道に書状を書いた。長年、小野寺家に仕えてきた茂道はこの処遇におおいに怒ったが、五郎がこれを押えて康道に返書をしたためた。
「これは五郎独断の処置であり。舅殿は無関係である」
ついに大井五郎は腹を決めた。西馬音内茂道は婿とともに死のうとしたが、五郎は押しとどめた。

 

1592年(文禄二年)12月18日。大井五郎は自害した。五郎の死とともに、茂道の疑念は晴れた。

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矢島にある大井五郎の墓(秋田県由利本荘市矢島町・高建寺)

 

弟に謀叛を起こされ、嫡子を殺害されて、由利十二頭全員を敵に回し、舅と室の命を助け、いまだ行方の知らないお鶴の身を案じながら、すべての責任を一人でかぶった五郎の話を語るたびに私は心が熱くなる。
弱者は強者よりも強し。歴史が彼を消そうとしても、人の心から五郎の魂は消えないのである。

第十章:志

 

太閤秀吉が死去して、天下は五大老筆頭、徳川家康と五奉行筆頭、石田三成の対立は避けられなくなった。奥羽でもその対立が生じて、かねてより石田三成と懇意の間柄であった、上杉景勝が挙兵。徳川家康は会津征伐の軍を発動。


家康の信任厚い山形の最上義光が東北勢の総大将になって、上杉領米沢を攻撃せんと東北中の諸大名が山形に集まった。

 

しかし、小野寺義道はかねてより対立していた、最上の旗頭になるのが気に食わなかった。また大井五郎の遺臣らも矢島の赤館に立てこもった。

 

また、由利郡内や南部領でも一揆が相次いで、南部利直や十二頭の諸氏は山形から撤退した。家康からのお墨付きでもあった。庄内の酒田には上杉家臣、志駄修理が割拠して赤館の五郎遺臣と連携を取っていた。五郎の遺臣は八森城代の菊池長右衛門(仁賀保家臣)を落とした。五郎の遺臣でもある、小助川摂津は赤尾津氏のもとに身を寄せていた。摂津は矢島に篭る、金子、相庭らの遺臣を説得しようと試みるが失敗。内越宮内少輔、仁賀保勝俊、赤尾津孫次郎、岩屋朝繁らは矢島を攻めた。1600年(慶長五年)9月のことであった。

 

一方、徳川家康は野州小山まで下向したが畿内にて石田三成が挙兵したことをしるや、軍勢を引き返す。これを知った上杉景勝は最上義光を総攻撃。山形に逗留していた他の諸大名は撤退した後で、頼みの綱でもあった伊達政宗も参戦には応じない。南北から怒涛の如く進軍した戦国最強「上杉勢」相手に義光はおおいに戦ったが、山形城は落城寸前に追い込まれた。しかし、天は義光に味方した。美濃関ヶ原において家康軍は石田三成を一日で破った。
世に言う「関ヶ原の戦い」である。


これを知った、上杉勢は撤退。最上義光は一命を取りとめた。後顧の憂いがなくなった義光は小野寺対策を考える。義光は戸沢政盛、秋田実季、由利十二頭らに小野寺義道が篭る大森城を攻めさせた。小野寺勢は連合軍に降伏した。終戦後、家康は徳川幕府を開いた。秋田実季、戸沢政盛は移封。小野寺義道は改易。六郷政乗、本堂忠親は栄転。十二頭からも仁賀保、赤尾津、内越は大名に取り立てられ北出羽を去った。


由利郡は最上義光に与えられた。岩屋朝繁、滝沢政長は義光の家臣として一万石を与えられた。最後まで生き残った由利十二頭である。1622年(元和八年)最上義俊は突然改易された。幕府の外様潰しの餌食になった。岩屋、滝沢は所領を召し上げられた。それから由利郡は数藩と幕府直轄地に複雑に区分けされてばらばらになった。
由利十二頭が自治を始めてから100年たらずのことであった。

 

新しく秋田に入部した佐竹義宣から秋田に残るよう説得された朝繁だったが、旧主の秋田実季のもとへと行くことを決めた。岩屋右兵衛尉朝繁は秋田を去るにあたり、銀杏(いちょう)の樹木を植えた。乱世の世の中に生まれて、泰平の世の中に秋田を去る運命となった彼はイチョウを植える際、何を思ったのだろうか。
その銀杏は「さかさ銀杏」と呼ばれている。

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安東、小野寺、大宝寺、戸沢、最上。

これらの豪族が由利という小さな土地を中心に割拠しあった。

 

由利十二頭は「大名」というジャンルで中世を生きてきたわけではない。あくまでも、一豪族という地方の小豪族における山賊的性質を持っていた。しかしながら、由利十二頭が戦国期にもたらした功績は大きい。


大宝寺義氏を滅亡させたのも、安東氏を秋田氏に育てたのも彼等である。伝説ではあるが真田幸村配下の十勇士の修行の地も由利であった。

21世紀初頭。由利十二頭の時代から500年近い今日。
赤尾津領だった秋田県由利郡岩城町では住民アンケートが実施された。
合併に関するアンケートで本荘市と秋田市のどちらと合併するかという議題であった。
私の予想とは裏腹に岩城町は本荘市との合併を望んだ。それだけではない、由利郡は仁賀保一帯をのぞきすべて本荘市と合併する道を選んだ。


その名も「由利本荘市」という。十二頭が去ってから383年目の事であった・・・・。

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