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​北羽の将星(前編)

第一章、海利
平安時代、前九年の役で朝敵として朝廷軍とおおいに戦った安倍貞任という男がいたが、戦に破れ自害した。貞任の残された子供は家臣らに抱かれて藤崎(現・青森県藤崎町)に落ち延びたという。


その子供は安藤高星(たかあき)を名乗った。安藤氏は、津軽半島の十三湊(現在の十三湖)から蝦夷地へと勢力を拡大していく事になる。
鎌倉時代、安藤氏は執権北条氏の信頼を得ていた。 中でも、安藤が誇る「安藤水軍」は「瀬戸内水軍」に劣らない最強の水軍と言われ、フビライ・ハンとも勇猛に戦ったという。


しかし、室町時代になった頃には、三戸の南部氏が津軽地方に侵攻してきたため領土が失われていった。

「このままでは安藤は終わる・・・」
安藤鹿季は、父や兄に内密で水軍を率いて、手薄であった南部領小鹿嶋(現・秋田県男鹿市)の染川城を攻撃した。その勢いのまま南下し、土崎湊(現・秋田県秋田市)を手中に治めた。 そしてこの地で「湊安東家」を称し、この地を支配していた南部守行の軍勢を仙北境まで追い払った。


一方、鹿季の兄、安藤盛季が守っていた十三湊は、南部氏の攻撃を受け陥落。盛季は蝦夷地渡島(現・北海道松前付近)まで落ち延びた。

この50年後、湊安東惟季(鹿季の孫)は安藤政季(盛季の曾孫)を誘い、南部支配下にあった葛西秀清が篭る檜山城を攻撃した。
その後、安藤総領家は檜山に居住し「下国安東家(檜山安東家)」を称する。
現在の青森に根を張っていた「安藤家」は、南部氏の攻撃で「湊安東家」「下国安東家」という二つの安東氏に分裂する事になった。

第二章、混迷
下国・湊の安東両家は秋田地方に根付いた。しかし、下国政季は無理な津軽奪回を企てて無益な出兵をした。これに反感を示した湊家と下国家は対立した。勢力を付けた下国家は小鹿嶋まで勢力を伸ばして湊家の勢力を一掃し、下国家が湊家に対して優位に立った。
それから50年後、湊定季は下国尋季に和議を申し込み政略結婚を申し出た。尋季はこれを了承。嫡男の舜季(きよすえ)に定季の娘を嫁がせた。
舜季と定季の娘の間には三人の子供たちが生まれた。
後の愛季(ちかすえ)・春季・茂季である。


ところで「湊安東家」が勢力を張った「土崎湊」とはどのようなところであったろうか。土崎湊は当時、「三津七湊」の一つに数えられる東日本最大の貿易港と言われ北国交易の中心地でもあった。蝦夷地の特産物を京に廻送して京より反物などの特産品が土崎についた。

​湊安東氏の本拠「湊城」(秋田県秋田市土崎港)

湊安藤氏は、内陸の小野寺、戸沢、豊島らの諸氏と手を結び雄物川筋を利用し米などの物資を蓄える事にも成功した。また奥羽の各地から名馬や特産品が土崎に集結したが、渤海(ロシア北方)や高麗(朝鮮半島)とも交流があったと思われる。
 

定季は、寺社を保護する事で一向宗や羽黒山の寺社勢力の信頼を獲得する事に成功し、土崎湊を軸に勢力を拡大した。
だが、湊定季に嫡子はいなかった。後継は甥の友季と決めていたが若くして病死してしまった。やむなく、次の後継は下国舜季に嫁いだ娘の次男である春季(定季の外孫)となり、これを受けた定季は隠居した。
しかし、湊家に更なる悲劇が襲う。なんと春季も16歳という若さで早世してしまった。定季は衝撃を受け、隠居を取りやめ「尭季(たかすえ)」と改名して政務に復帰するが、老齢な尭季にはこの状況をどうすることもできず、1551年(天文二十年)9月13日、湊尭季はその波乱な人生に幕を閉じた。

第三章、奔走
尭季死後、湊家中では後継者争いでもめる事になったが、下国家が湊家に介入して故尭季の外孫で下国舜季の三男、茂季が湊家に養子に入った。事実上、湊家は下国家に併合される形となった。
特に豊島郡の国人・豊島重村は、不安を抱いた。
「土崎湊を下国家に独占されては我らは餓死するのみ・・・」
これまでの湊家との経済提携が、豊島氏等、北羽内陸の国人領主に利益をもたらしてきた。雄物川筋や土崎湊が下国家に掌握されると、まさに河辺・仙北の内陸の国人は、「陸の孤島」となってしまうのである。
そんな中、下国家の頭領・舜季が死去する。
家督は舜季の嫡男・愛季が継承した。この愛季がこの物語の主人公であるが、愛季は後に安東氏最大の勢力を築くことになるとは、まだ誰も知らない。

 

下国安東氏の居城「檜山城」(秋田県能代市)

北羽の国人領主たちの不安は的中する。
愛季は、越後の上杉謙信、能登畠山氏、越前朝倉氏ら北陸の諸大名と同盟を結び土崎湊を拠点に交易を始めた。この事実は、下国家が完全に土崎湊を掌握してしまった事を裏付けた。


湊家の当主・湊茂季は兄、愛季の思うがままに動いたので、湊家はもはや形だけのものとなってしまった。
こんな中、1563年(永禄六年)庄内の砂越宗順の仲介で出羽最上の大名、最上義光から親睦を深めたいとの申し出が愛季にあった。

最上義光は、南に伊達氏、北に小野寺氏、西に大宝寺氏という敵と対峙していたため愛季と同盟を結びたいという思惑があったのであろう。愛季は、小野寺氏や大宝寺氏と敵対していたために最上義光と同盟を結んだ。


砂越宗順の娘は、愛季の正室でもあり、愛季の外交役でもあった。もともと、砂越氏は大宝寺氏に仕える国人であったが、動きとしては独立に近く、海を通じて上杉家・下国家と親睦を結んでいた。


話は前後して、1558年(永禄元年)比内の浅利勝頼が愛季のもとにやってきた。
勝頼は、一代で比内郡に浅利王国を築いた浅利則頼の次男であった。
しかし、父の死後に兄の則祐と不和になり愛季を利用して自分が浅利の当主になろうと企てていた。
「愛季様に仕えまする。鹿角郡への侵攻の拠点としてお使いください。」


鹿角郡は安東氏代々の宿敵、南部晴政の拠点であり比内と接していた。勝頼の野望は見え見えであったが北へ勢力を拡大するため愛季は勝頼と手を結んだ。
愛季は、まず手始めに鹿角境の十二所城に家臣の大高筑前を派遣した。そこで、鹿角の国人、花輪中務と会見した。

鹿角境にある十二所城跡(秋田県大館市)

1562年(永禄五年)、愛季は、浅利勝頼とともに勝頼の兄、浅利則祐を扇田長岡城を攻撃して滅ぼした。これにより浅利勝頼は、浅利家当主となり愛季の傘下に組み込まれる。

浅利氏比内の拠点「扇田長岡城跡」(秋田県大館市比内)
 


第四章、略奪
浅利家が愛季に降服した事をきっかけに阿仁の嘉成資清や西津軽の国人が下国家の勢力に入った。
1564年(永禄七年)、勢いづいた下国愛季は大軍をもって南部領鹿角に侵攻した。
鹿角郡は、鉱山の宝庫であり豊穣の田園を兼ね備えており周辺勢力の的であったが、「一村一館」とも呼ばれ攻る守りが堅くその攻略は非常に難しいものであった。


鹿角の谷内城を落として、長牛(なごし)・石鳥谷らの砦を攻撃したが、容易には落せず、檜山へ撤兵した。
1566年(永禄九年)、愛季は、再度鹿角へ攻撃する。「第二次鹿角侵攻」である。
今度の戦では、由利十二頭や蝦夷地の蛎崎季広の援軍も取り付けていた。
だが、鹿角の堅城として詠われる「長牛城」は、容易には落せなかったが、大高筑前が出城の谷内城を落としたことで形成が変わった。

 

長牛氏の居城「長牛城跡」(秋田県鹿角市八幡平)

落城寸前の長牛城主、長牛友義に愛季は矢文を送った。
「長牛はせたくれ牛にさも似たり あぶにさされて尾をぞふりけり」
これを受けた友義は、返書をしたため愛季の陣に送った。
「あぶ三つ せたくれ牛に食いついて尾にてひしがれ しようこともなし」

「せたくれ牛」とは長牛の事であり、「あぶ」とは愛季のことであろうか。
同年10月16日、長牛城は落城。友義は落ち延びる。
これにより鹿角は安東の勢力に入った。しかし1569年(永禄十二年)来満山から南部配下の石川高信・長牛友義を総大将に、七時雨街道からは、剛勇で詠われる九戸政実が侵攻。愛季の勢力を一掃され鹿角は再度南部の勢力に塗りなおされてしまった。

愛季が鹿角を治めた三年間は、日本の歴史上初めて秋田の勢力が鹿角を治めた瞬間であった。愛季の次

に鹿角を秋田の勢力が治めることになるのは約300年後の廃藩置県の時まで待たなくてはならない。

第五章、湊乱
河辺の国人、豊島重村は苦悩の日々を送っていたに違いない。湊家は、もはや形だけになってしまい愛季への叛意は強まっていった。

ところで、豊島氏というのはどういう系譜であろうか。もともと、豊島氏は武蔵国発祥の豪族であったが、豊島秦経の代に太田道灌に滅ぼされてしまった。その末裔が河辺郡に流れ着いたと云われている。

豊島氏の居城「豊島館跡」(秋田県秋田市河辺町戸島)

重村は、愛季に対抗すべく河辺郡の領土拡張に動いた。手始めに安東一族の安東季林の篭る白華城を奇襲で落とした。

その後、河辺種平館主の平尾鳥式部の姫に目をつけて嫡子・重氏の嫁にもらい受けたいと打診するが、あっさり断られた。これに業を煮やした重村は種平を攻撃した。 この戦で式部をはじめ姫も戦死したといわれており、豊島氏は種平を手中に収める事に成功する。
 

重村の正室の実家は、由利十二頭の仁賀保氏である。仁賀保氏の背後には、庄内の大宝寺氏がおり、強大な勢力であった。

ところで、羽黒山別当職は土佐林氏である。土佐林禅棟は、大宝寺氏を主家としていた。毎年、奥羽の諸大名には羽黒山の神札が配られるが 、その使者、智顕坊は下国愛季の湊独占という横暴を聞いていた。智顕坊は重村を訪ねたが、仁賀保氏を通してこの両者は面識があったようである。重村は、智顕坊に下国愛季への神札配布を取り消すよう求め、これを了承した智賢坊は、比内の浅利氏まで出向いたにもかかわらず、愛季に神札を配らずに羽黒山に帰還してしまったのである。
これを聞いた、愛季は驚いて怒った事はいうまでもないが、羽黒山の背後に豊島重村がいる事は察知していた。


「大宝寺の同盟者、謀叛人の豊島重村を攻める!」
これを聞きつけた、重村の怒りは頂点に達していた。
「愛季め!とうとう本性をあらわしたな。」


豊島重村は仙北領内の国人らと手を結び、愛季に反感を抱く下刈右京、川尻中務らとともに湊城主の茂季を包囲して監禁した。茂季は驚いて、自信を喪失した。
この重村の行為に激怒した愛季は檜山城を出陣。推古山(現・秋田市手形山)を挟んで重村軍と対陣したが、この対陣は二年にも及んだと言われている。


さすがに、この長期間の対陣は愛季にも予想できなかっただろう。重村は、勇猛に長々と戦ったが強、大な軍事力と内政力を持つ愛季がこの戦いに勝利し、遂に豊島城は落城する。重村は再起を計って仁賀保氏を頼り落ち延びた。
豊島落城後、空白となった豊島城に茂季は移され「豊島茂季」と名乗ることになる。1572年(元亀三年)の事である。
湊安東氏は名実とともに滅び、愛季は拠点を檜山城から湊城へ移して「安東愛季」を称し、2つに分かれた安東氏は統一された。

第六章、遠国
1575年(天正三年)時の権力者、織田信長から愛季のもとに書状が届いた。
「名鷹が欲しい。よって鷹匠を派遣する。宜しく頼む。」という内容であった。
戦国時代、鷹狩りといえば野趣あふれる武将のたしなみでもあり、周辺の情勢を見聞したり家臣の忠誠を図るものでもあった。愛季は奥羽の武将でありながら、日本海の北国貿易を独占していたため中央の情勢にはあかるかった。

これより前、愛季は畿内に家臣、南部宮内少輔を派遣していたため、その業績が功を奏したのかもしれない。鷹を送った愛季に対して、1577年(天正五年)信長は、
太刀を愛季に与えた。こうして信長と愛季の関係は増していった。


このような状況を見て、北羽周辺の大名も上洛を急いだ。1579年(天正七年)愛季の使者、檜山三次や仙北上浦の小野寺輝道、仙北北浦の戸沢盛安の使者である前田薩摩らが上洛した。同年7月26日、堀秀政、南部宮内少輔らがこれらの饗応役となり信長に謁見して安土、京見物をしたという。1580年(天正八年)8月13日上洛が功を奏したのか愛季は信長の仲介で朝廷より従五位上に任命される。
 

安土城の城下町跡(滋賀県近江八幡市)

第七章、渦乱
1574年(天正二年)浅利勝頼は、遂に愛季に対して謀叛を起こす。 津軽の大浦為信の後援を得て比内山田(現・田代町山田)にて愛季の軍と戦った。世に言う「山田合戦」である。この戦いで浅利軍は大敗して勝頼の叔父の宜頼が戦死した。


ところで、北方に目を向けてみよう。

南部晴政には娘が六人いたが後継の男子はいなかった。晴政の長女は、石川高信の子、信直に嫁いでおり、晴政は、信直を南部総本家の後継と定めていた。

しかし、晴政に嫡男、晴継が誕生して情勢は一変。信直を廃嫡にして晴継を後継としてしまった。信直は激怒して、晴政と争う姿勢をとった。これを好機と総領家後継を狙った九戸政実もこの争いに加わった。

一方津軽では、大浦為信が南部氏の内乱を利用して石川政信(信直の弟)を利用して津軽の覇権を争った大光寺光愛を津軽から失脚させる事に成功した。さらに為信は、浪岡城で浪岡御所として権勢を誇っていた北畠顕村を滅ぼした。

余談ではあるが、顕村の子、北畠慶好は、愛季を頼り土崎湊に落ち延びており、その後「岩倉右近」と名を改め安東氏一門並の破格の待遇を受ける事になる。


南部では、晴政・晴継に信直、九戸政実、さらに大浦為信が四つ巴になって相対したが、晴政が病死し、晴継が信直によって暗殺されると情勢は信直に有利になり、信直が後継者となり、南部信直が誕生する。

一方、南部家を失脚した大光寺光愛は、比内郡に落ち延びて大館城に入城。浅利勝頼と同盟を結んだ。

利・大光寺らの勢力拡大を恐れた愛季は、これらと同盟を結んだ。1580年(天正八年)、安東・浅利・大光寺の連合軍は、大浦為信と戦い勝利した。為信にとって、光愛と愛季の同盟は想定がつかなかっただろう。


1582年(天正十年)5月、愛季は、大宝寺義氏(だいほうじよしうじ)との対立が避けられないものとなった。

後顧の憂いは、浅利にあった。勝頼を檜山城に誘いだし、酒宴を開いている最中に愛季の臣、深持季総、蛎崎慶広をもって謀殺した。勝頼の嫡男・浅利頼平は、大浦為信を頼り落ち延びた。野心深き武人「浅利勝頼」の最期であった。

浅利三代の居城「独鈷城跡」(秋田県比内町)

第八章、征南
前章でも触れたように、由利をめぐって愛季と庄内の「悪屋形」こと大宝寺義氏との対立が激化したが、由利十二頭の諸将に尾浦城(大宝寺氏居城)への参陣を求め、影響力を行使しようとした事がきっかけであった。
秋田郡をほぼ統一した愛季は山形の最上義光と同盟を結び、一方の大宝寺義氏は安東・最上と対立する仙北の小野寺輝道と同盟を結び、互いに牽制しあう動きを見せていた。
1582年(天正十年)4月、義氏は、由利出兵の意向について、大曲の前田薩摩に書状で送っている。義氏はその後、大浦為信とも交信を行い、愛季領への出兵を促した。

愛季も蝦夷福山(現・北海道松前町)の蛎崎季広に援軍をとりつける等、愛季、義氏ともども意地の張り合いが続いた。


一方、由利十二頭の諸将は、独立を保つため周辺諸大名との調整事に追われた。仙北の小野寺輝道が上洛するのにに合わせ、留守役の小野寺義道(輝道の嫡男)は十二頭に対し人質を求め、それに応じた。

しかし、由利十二頭は安東家に親類があるものが多かったためこの処遇には不満があった。人質を取られ容易に手出しできないことに不満を募らせていた由利十二頭であったが、人質たちが主家のこのような思いを察し自害する事件が起きた。憂いがなくなった由利十二頭の軍勢は、小野寺氏に対して決起。「大沢山合戦」の始まりであるが、この合戦で小野寺氏は大敗してしまい、由利十二頭に対する小野寺氏の影響力は低下した。


この後、愛季の策略が功を奏し最上義光が庄内の大宝寺を攻撃することになったが、大宝寺義氏は頃合いを見計らい由利へ進軍を開始した。


「大宝寺義氏、由利に現れる。」
この報を聞いた、仁賀保、滝沢、大井、打越らの由利十二頭の諸氏は大宝寺氏に降服した。小野寺義道は先の大沢山での敗退から大宝寺への援軍は出さなかった。
破竹の勢いで進軍する大宝寺の軍勢は、由利郡岩屋(現・秋田県由利本荘市岩谷)の辺りで、軍勢を二手に分けて北上を開始した。由利十二頭・岩屋氏の居館、古館は落城。その
家臣たちは「千人隠れ」に隠れるも米のとぎ汁が下流の芋川に流れ潜伏場所が発覚。その残党は赤尾津氏頼って落ち延びた。
由利十二頭・赤尾津治部(光政)は愛季と前々から親交を結んでいた事もあり、愛季に援軍を要請し、赤尾津氏の一族、小助川氏の荒沢城に援軍を派遣した。

 

由利北部の小助川氏の居館「荒沢城跡」(秋田県由利本荘市)
 

荒沢城は、義氏に攻められもはや落城寸前であった。

愛季は家臣、一部勝景を総大将に援軍を派遣した。大宝寺勢は思わぬ援軍来訪に動揺して庄内に兵を退いたが、小野寺義道の援軍がこなかった事も敗因の一つと言えよう。
翌年1月、大宝寺義氏は再度、北上し荒沢城を攻めるが、民政を顧みず無駄な出兵を続け悪政を行う義氏に従うものなど少なく、義氏は退却した。
同年3月27日、大宝寺義氏に思わぬことが起きる。家臣の東禅寺筑前(前森蔵人)らが尾浦城に火を放ったのだ。義氏は自害。義氏の後継には、弟の丸岡義興が抜擢されたが、愚将であった。

越後の上杉の臣、本庄繁長の次男をもらいうけ義興の養子(後の大宝寺義勝)としたが、これを機に庄内は、本庄繁長に牛耳られることになる。

 

第九章、名将
1579年(天正七年)、愛季の弟・湊茂季(豊島茂季)が死去。茂季の遺児二人は愛季の保護のもと湊城で密かに生活することになった。
仁賀保氏の客将となっていた豊島重村は、仁賀保氏や赤尾津氏ら由利十二頭の力を利用して愛季に許しを乞うた。愛季は重村親子を許して再度豊島城主に復帰させた。この行為には自分の面目をたたせようとする重村の芝居気がうかがえる。しかし、1584年(天正十二年)豊島重氏は再度、愛季と敵対することになる。


愛季の後ろ盾であった、織田信長は1582年(天正十年)本能寺の変で世を去った。これ以後、世は戦乱へと突入している。
大光寺光愛とともに比内を統一した愛季は、大館城代に秋田内膳と五城目秀兼を置いた。その後、南部信直と講和を結び愛季の三男、忠次郎実泰と信直の娘の婚儀を済ませた。これは両家にとって初の講和である。


こうして安東愛季は西津軽、比内、檜山、大阿仁、小阿仁、湖東、小鹿嶋、湊、豊島、赤尾津、羽川を平定して安東家最大の版図を築いた。これを機に愛季は居城を湊城から小鹿嶋の脇本城へ居城を移した。


1586年(天正十四年)浅利頼平は大浦為信の後援を得て「浅利家再興」のために比内を攻めてきたが、今となっては無駄な抵抗であった。同年の暮に愛季は交易をめぐって、仙北角館の戸沢盛安と不和になった。
愛季は嘉成播磨、鎌田河内らに淀川城を攻撃させた。これを聞きつけた淀川の東方の荒川城主、進藤筑後守は主家、戸沢盛安に援軍を要請。盛安は、同じく交易で愛季に不満を抱く小野寺義道の援軍をとりつけ仙北唐松野に出陣した。

第十章、斗星
安東愛季は、3000騎を率いて仙北唐松野に向かったが、この時すでに愛季は病魔に冒されていた。1587年(天正十五年)4月6日「唐松野合戦」が始まった。 戦闘は11日まで続いた。
しかし愛季軍は矛をおさめ引き上げた。なぜなら、愛季は重病になり脇本城へと護送されていたからだ。
一方の戸沢盛安は阿仁の豪傑、嘉成右馬頭を討ち取り天下に「鬼盛安」と言わしめた。この後、安東・戸沢・小野寺の使者が集結して講和が結ばれた。この講和によって安東方は淀川城を戸沢方に返した。

 

同年9月1日、安東愛季が脇本城にて死去した。享年49歳。
安東家最大の版図を築き上げた愛季は死後「斗星の北天に在るにさも似たり」と恐れられた。南部、戸沢、小野寺、戸沢を敵に回し海を利用して積極的に中央政権と関わりをもった愛季。
その人物像は冷酷さを兼ね備えた知将であり典型的な「戦国人」であった。

安東愛季終焉の地「脇本城」(秋田県男鹿市)
 

後編に続く

更新日:2004.6.25
移転日:2005.7.17

加筆修正:2017.8.6

【参考文献】

・秋田魁新報社『秋田の城』(秋田魁新報社、1955年)

・戸部正直著、今村義孝注『奥羽永慶軍記(上・下)』(人物往来社刊、1961年)

・深澤多市『小野寺盛衰記』(東洋書院、1979年)
・国安寛、柴田次雄編『郷土史事典・秋田県』(昌平社、1979年)
・本荘市編『本荘市史通紙編1』(本荘市、1987年)
・渋谷鉄五郎『秋田「安東氏」研究ノート』(
無明舎出版、1988年)
・大内町史編さん委員会編『大内町史』(大内町、1991年)

・柳沢弘志『鹿角の歴史案内』(無明舎出版、2003年)

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