top of page
kunohe-siroato.jpg

最後の戦場「九戸政実の乱」
-北出羽物語3周年特別企画-

1、はじめに
 
「白河以北一山百文」

明治維新の時に勝者の薩長と敗者の奥羽諸藩をなぞらえて比較し、東北を皮肉る時に使われた表現である。
その意は、白河の関より北の山はすべて一山百文で買うことができるというものであるが、
この話はたとえであり、事実ではない。
事実、東北の山が百文でかえるなどありえない話である。
 
古来より、東北という土地は中央から離れていたゆえに中央に抗う気質があった。
朝廷の支配下にはあらず、文化が低いと罵られていた。
 
そんな中、東北が大きく変貌した時代は、まさしく動乱の戦国時代であり、
時の天下人、豊臣秀吉の威光は全国に届き戦国時代にも終止符がうたれようとしていた。
山川出版社の高校の日本史教科書『詳説日本史』によると、次のようにある。

「秀吉は1583(天正13)年、長宗我部元親をくだして四国を平定すると朝廷から関白に、翌年には太政大臣に任じられ、豊臣の姓をあたえられた。関白になった秀吉は天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称して、全国の諸大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の裁定にまかせることを強制した(惣無事令)。そして惣無事令違反を理由に1587(天正15)年には九州の島津義久を征討して降伏させ、1590(天正18)年には小田原の北条氏政を滅ぼし(小田原攻め)、さらに伊達政宗ら東北地方の諸大名を服属させて全国統一を完成させた。

一見すると、今までと変わらない秀吉の全国統一の道程の流れが書かれてるように思われる。

しかしながら、この記述の最後の行だけはまったくの嘘である。

なぜなら豊臣秀吉は、翌1591年、東北に十万の大軍勢を派遣しているからである。東北を舞台に繰り広げられた最後の戦。

歴史はこの戦をどうしても消したかった。
記録を消すことは簡単だったが、人々の心からこの戦を消すことはできなかった。
人は、いや特に東北の人々は、もっとこの事実を知るべきではないだろうか。

 
2、九戸の乱のはじまり

高橋克彦著『天を衝く』という小説を読んだことがあるだろうか。

陸奥に九戸政実(くのへまさざね)という男がいた。政実は南部家一族において近隣諸国に名の聞こえる剛勇のつわもの。しかし、津軽の独立の動きや、執拗な安東氏の攻撃で「三日月の丸くなるまで南部領」といわれた南部氏の以前の繁栄はもはや昔語りとなっていた。織田信長が天下取りを目指した天正年間は、奥羽は戦乱の真っ只中。とても「天下統一」など言っていられる状況ではない。政実は奥羽の辺境の地が故に南部の現状を嘆いた。南部のためを思って様々な策を弄するも、南部家からは政実の行為が一家を乱す不平分子との声が高まる。それに加えて南部総領家での後継を巡る内乱、戦乱・・・というような内容である。
そして、九戸政実が1591年に起こした「九戸の乱」と呼ばれる戦こそ、日本の中世における最後の戦である。歴史の教科書や小説、大河ドラマでも、ほとんど触れられていない。1591年1月、九戸政実は南部本家の年賀の挨拶を拒絶。三月には九戸城(現・岩手県二戸市)に5000の兵をもって立てこもった。本家の棟梁、南部信直は豊臣秀吉に政実の討伐を要請した。秀吉は九戸を討伐するために、蒲生氏郷、浅野長政ら十万(先手六万五千)もの大軍を派遣した。

 
「五千に十万じゃぞ。その十万が総攻撃を仕掛けて参る。小田原攻めも二十万で囲んだと聞いておるが、結局は攻める前に北条が白旗を掲げた。我らが最初で最後であろうぞ」
(『天を衝く』より)


 
3、姉帯合戦

九戸政実の親類に姉帯大学兼興、兼信という兄弟がおり、たった二百の兵で姉帯城に籠り上方軍を防ごうとした。姉帯の地は九戸城の南に位置する交通の要衝である。

「やさしき姉帯が籠城かな。先手の軍神の血祭に踏潰せ。」
(『奥羽永慶軍記』より)

上方軍の総大将、蒲生氏郷は姉帯城を侮って正面から攻めることにしたのである。

「蒲生将監率いる三千の兵は九月の一日に姉帯城へと攻め寄ったのであるが、思わぬ待ち伏せに遭って城への突入前に五百もの兵を失ってしまったのである。」
(『天を衝く』より)


その上、正面から攻めた蒲生勢は相当数の死傷者を出してしまった。死ぬ気で突進してくる姉帯の軍勢。しかし兵力差は十倍。勝敗はあきらかであった。

「蒲生勢此勢ひに恐れて、手詰の勝負は叶うまじ。弓にて攻よ。というままに、さんざんに射たりけり。兼興も其身金石にもあらざれば、鎧に立つ処の矢、冬枯れの草の如く、鉄砲・鑓疵隙もなく、馬もひとしく弱りければ、今は是迄ぞと大音揚て、姉帯大学兼興唯今自害するぞ、手本にし給へ人々。と、鎧脱捨て、腹十文字に切て失にけり。討残されし十四、五騎の者ども皆刺違ひて死にけり。」
(『天を衝く』より)

生まれては死ねるものとは知りながら 君に先立つ身こそ惜しけれ 
(姉帯城主最後の句)
 
anetai-siroato.jpg
姉帯城跡(岩手県一戸町)

 
4、大湯城攻防戦

鹿角(かづの)は現在の秋田県北東部に位置している。当時は陸奥国で秋田と南部の勢力の衝突が度々繰り返されていた。

「高原に日は照りわたり さわやかに秋風そよぎ 大樹みなもみじ葉かざり みちのくの十和田の山に 古しへの神のみやこは 今ここにあれまし出でぬ。」
(『秋田の城』より)


素晴らしい自然に恵まれた鹿角郡大湯もまた、九戸の乱の戦火を浴びることになる。大湯の城主、大湯四郎左衛門は九戸政実に加担することを表明したからである。大湯城の攻略は、津軽にあって南部配下の大光寺光愛に任された。光愛を大湯の東方来満山を越えて大湯城を囲み陣取った。

光愛は城に向けて弓矢を放って猛攻撃をしかけたが、大湯の城は山城。堅城として名高く容易には落ちなかった。また、大湯四郎左衛門は周辺諸国に聞こえた名将であった。大湯城には兵糧も豊富に備蓄してあった。上方勢の軍勢からは多くの死傷者が出た。光愛は城攻めの責任者、関助右衛門を呼び出して、叱責。敗北の責任を問いただした。


「我れ明日賊将を斬らずは再び帰らじ。」
(『秋田の城』より)

助右衛門は同志を集めて、その翌日、責任を取って壮烈な討ち死にを遂げた。

「関が霊魂を慰めよ。汝等努力せよ。」
(『古戦場・秋田の合戦史』より)


光愛は助右衛門の死に涙を流した。光愛は深夜の食事をすませ明け方に総攻撃をしかけた。
大湯城兵も突然の奇襲にも関わらずよく防いだが、食事をとっていなかったため士気は萎えていた。結果、大湯四郎左衛門は大湯を落ち延びて政実の籠る九戸城へとわずかな手勢で向かった。


 
ooyu-tateato.jpg
大湯鹿倉城跡((秋田県鹿角市十和田大湯))

 
5、九戸城の戦い
九戸討伐にやってきた軍勢は、九戸城の東西南北を囲んでいた。

大将、蒲生氏郷と、最上義光は村松というところに陣取り、軍艦、浅野長政、堀尾吉晴は本丸北の八幡社に陣取り、井伊直政は城北の上野というところに陣を張った。秋田実季、津軽為信、小野寺義道、松前慶広は城の南東、若狭館に向かった穴手というところに、仁賀保勝俊をはじめとする由利十二頭は搦手に陣取っていた。そして、南部信直は城東、猫淵沢を隔てて陣取った。


「凡(およそ)十五万の軍勢なれば、上方をばいまだ見ぬ奥者は目を驚かし、肝を消すばかりなり。」
(『奥羽永慶軍記』より)


しかし、この軍勢に政実は少しも驚きを示さず、城の各手を固めさせた。なぜなら、九戸城というのは三方を猫淵川、白鳥川、馬淵川という三つの大河が流れ、切岸、石壁が高く、屏風を立てたかのような堅牢さであった。さらに、もう一方を急峻な山に接し、その間、深く堀を掘り、土手を高く築いて、所々に櫓を並べて、本丸の外に松館(松の丸)、外館、若狭館という三つの砦を擁していたからだ。
 
kunohe-matunomaru.jpg
sotodate.jpg
九戸城 松の丸館跡・外館跡
 

「其上城中に籠る所の兵には、大将九戸左近将監政実・舎弟隼人正・櫛引河内守清長・同左馬介清政・七戸彦三郎家国・久慈備前守政則・舎弟中務少輔・同主水・大里修理亮・大湯四郎左衛門尉なり。」
(『奥羽永慶軍記』より)


そして、九戸政実の天下に抗う大喧嘩がはじまった。六万五千もの大軍が雲霞の如く、九戸城に迫る。上方勢は九戸を侮り切岸をよじ登るが城内よりさんざんの弓、鉄砲が射掛けられた。一回の弓、鉄砲に上方勢の郎党が二、三人討たれて、九戸城の堀は上方勢の死体で埋め尽くされた。
 
kunohe-horiato.jpg
九戸城 堀跡
 

「寄手は手負・死人数を知らず。」
(『奥羽永慶軍記』より)


九戸勢は政実のもと奮戦した。一方の上方勢の士気は萎えていた。なぜなら、上方勢の大半は野営であったため慣れない東北の気候に翻弄され、多数の凍死者を出した。さらに、六万五千もの軍勢の食料は三日で底を突きかけた。さすがに上方勢も三日以内に九戸城を落とすつもりでいたのだが、ここまで日数がかかるとは想定外であった。

「此城只今の如くんば容易に落べしとも覚えず。左あらんに於ては、兵糧乏しければ久しく陣を張難し。又急に攻落さんとせば、味方もおほく討るべし。如何はせん。」
(『奥羽永慶軍記』より)


上方勢の動揺が見られる中、上方勢は九戸家菩提寺「長興寺」の薩天和尚に政実との和議の使者を依頼する。

「抑、今度大軍を引受け、堅甲利兵の働、籠城堅固に相支らるるの条、武辺の名誉抜群に覚候。然りと雖も、天下の敵を受け、争か本懐を達せん哉。ことごとく本城を押崩し、一々首を刎ねん事、踝を廻らすべからず。こいねがはくは、早く降参に令はば、天下に対して全く逆心これなき条、洛陽に登り訴へらるるべし。然らば一門・郎徒身命を扶け、且亦勇武の趣上聞に達せば、其の功に感ぜられ、還って所知を宛行せらるるべき者。それに因って案内を致し候。
浅野弾正小弼長政 
堀尾帯刀先生吉晴 
井伊兵部少輔直政 
蒲生忠三郎氏郷」

(『奥羽永慶軍記』より)

 
kunohe-honnmarukoguti.jpg
kunoihe-honnmaruato.jpg
九戸城 本丸虎口跡・本丸跡
 

「天を衝いて雷雨を呼び寄せようと思っており申したが・・・・・・秀吉という天はなかなかしぶとい。小雨程度しか降ってくれ申さぬ。」
(『天を衝く』より)


「抑、我今度の戦は天下に向かって逆心を企るに非ず。信直に野心有るが故に不慮に起こりたる事にてこそ候らへ。其上長政いひ送らるるが如く、我一人の心を以て万人を悩す事も不憫なり。兎に角我一人は思ひ定し事なれば、死する命、露塵とも思はざれども、稚き者どもを助け、万人の愁をも止めんと思うは如何。」
(『奥羽永慶軍記』より)


政実は降伏を決意した。今は勝機に満ち溢れているが、そのうち上方勢によって九戸城は落城すると考えた。そこで全員助命を条件に九戸開城を決意して和睦に応ずることに決めたのである。政実が降伏すると知った城内は紛糾した。政実の舎弟、隼人正実親は反対した。

「御尤には候らへども、上方の軍慮に強き敵をば弓矢を止て、謀て討つとこそ伝え承り候らへ。近くは去年相州の北条、左様の謀を実として城を渡し、首を刎られ候ふなり。但此度は長政謀にてこれなく、実なる事も候ふべし。たとへ実に候らふ共、南部の敵をいかでかゆるし候らふべき。所詮武士の死すべき所にて死せずは、必不覚を取ると古よりいひ伝えて候らへば、且幾度も命限りに戦ひ、尸を九戸にさらされ候らへ。名は後代に残るべし。」
(『奥羽永慶軍記』より)


また、『天を衝く』には降伏に紛糾し、城内が混乱する様子がよく描かれている。
九戸党の騎馬軍を率いていた畠山重勝が政実の前でいきなり脇差しを抜いて己の腹に突き立てて、政実が「馬鹿な!俺の心が分からぬのか。」と言った後の畠山の言葉である。


「そうして皆をしかってやってくだされ。殿が投降したあとに腹を切る気でいるのがここには何百とおりまする。それを察したればこそ手前はこうして・・・・・・皆が腹を切っては殿のお情けが無駄となりましょう。なにとぞ・・・・・・なにとぞ、皆に死ぬでないと・・・・・・」
(『天を衝く』より)


翌朝、上方勢の降伏を勧める使者が九戸城にやってきた。

「使者の役目を与えられていた浅野長政の側近である浅野六右衛門は思わず目を疑った。大きく広げられた門の向こうにきらびやかな晴着を纏った武者が床几に腰を据えて居並んでいるのを認めたからである。」
(『天を衝く』より)


蒲生氏郷はじめ上方勢は動転した。まさか、こんなにも早く政実が降るとは思わなかったからである。しかし、上方勢は全員助命を条件にした和睦を反故にした。本丸にいた、九戸勢五千の軍勢を二の丸、三の丸に押し込めて総攻撃を仕掛けたのである。
 
kunohe-ninomaru.jpg
九戸城 二の丸跡
 
「二・三の丸に有ける一揆ども、本丸にて隼人正討死にして、氏郷の大勢入替れば、城外より数万の軍兵押取り、籠網代の魚の如く、洩て出べきやうもなし。堀尾帯刀真先かけて二・三の丸へ大鉄砲を打入れ、火矢を射懸る事隙もなし。寄手十万余人の軍兵ども、九戸五千余騎を打囲み、弓・鉄砲を射懸る。一人に玉、二つ三つ中るとも、外るるは有るべからず。」
(『奥羽永慶軍記』より)


「こは口惜き次第なり。謀られぬる。」

(『奥羽永慶軍記』より)

政実が居ない城内の様子は未曾有の様子で、地獄絵図さながらの光景であったと伝えられる。九戸勢に至っては女、子供は撫で斬りにされ、五千の郎党はほぼ討ち死にした。上方勢の仕打ちは相当のものであった。


「武者の道を貫くために九戸党の者たちは死んでいったのである。南部や蒲生には死ぬ理由がない。だから苦痛となって表われる。つまりは無駄死にだ。勝った側でありながら、死骸の山を見つめる兵たちになにかを果たしたという満足はなかった。血の臭いの混じる冷たい風を浴びて兵らはただ立ち尽くしていた。」
(『天を衝く』より)


天正十九年九月八日、九戸政実、七戸家国、櫛引清長らは奥州三ノ迫において総大将・豊臣秀次との謁見も許されないまま惨殺された。

「お前は馬鹿者じゃったが、儂も大馬鹿者。すっかり狐どもに化かされた。なれど本当の馬鹿者はあやつらじゃ。もはや互いになにも言うまい。馬鹿を相手にしたとて、ただくたびれるばかり。おまえはあの世で九戸党を率いて新しき国を作れ。怒らずに儂の居場所も用意しておけよ。政実、聞こえたか。」
(『天を衝く』より)


『天を衝く』に描かれた薩天和尚の言葉である。薩天は上方勢の謀と知らずに使者を引き受けたことを悔いていた。九戸政実の首は佐藤外記という政実の旧臣によって九戸の「長興寺」に運ばれた。
 
6、「心は九戸党」
『天を衝く』の著者・高橋克彦氏は「あとがき」でこの作品に費やした年月は七年と語っている。他作品が一年そこそこで完成しているのに比べて七年という歳月は相当なものだと思う。そんな高橋さんのあとがきには次のようにある。

「しかし―今でも不思議な思いにとらわれる。終わり方の短さだ。なぜもう三、四十枚費やして九戸政実の無念な胸のうちや、豊臣軍の非道な仕打ちを訴えようとしなかったのだろう。いくらでも書くことはあった。変な言い方になるが、どうでもいいような場面に私はもっと枚数を投じてきている。もういい、とあのとき私は九戸政実に言われたような気がする。ことさらに涙を誘うような粉飾や、恨み言はおれには似合わない。九戸政実は確かにそう言った。恨みを立てなければならない戦なら、はじめから戦さなどしない、とも。そういう九戸政実なればこそ私も七年間付き合ってこられたのだ。心は九戸党。頼まれる色紙に私はいつもこの言葉をしたためている。」
(『天を衝く・あとがき』より)


高橋克彦氏の『天を衝く』という小説に心を動かされた人間は私のほかにも大勢いると思う。

​いつだったかのNHKのドキュメンタリー番組でこの小説の存在を知ったが、なかなか本を読むことのできる機会がなかった。思い切って全三巻を買ったがわずか一週間ですべてを読みきった。と、同時に熱い何かと涙が一気にこみ上げたのを記憶している。
「いつかは北出羽物語で九戸政実を特集するぞ・・・!」と誓ってから一年ちょっと。
ついに南部の二戸を訪問する機会に恵まれた。九戸城跡を訪問したときは地元の少年がサッカーをしていて、哀愁にひたることはできず、案外拍子抜けでそれぞれの史跡を見たような感じがする。しかし、二戸の人は九戸城跡を大切にしていることだけは実感できた。

九戸政実は天を衝いた。しかしながら、天下は謀(はかりごと)という卑劣な真似で東北を無理矢理平定した。九戸の乱に関する記録もすべて歴史の大河に消された。そして、九戸城は福岡城と改められ、何事もなかったかのように時が流れていった。

 
kunohe-kuyoutou.jpg
九戸城跡に立つ「九戸城戦没者供養塔」(岩手県二戸市)


しかし今、九戸城を福岡城という人はいない。九戸政実に敬意をはらい「九戸城」と呼ばれているのである。

「この北の地の安寧を守るという夢がありながらも、最後の最後で挫折する。政実の夢は、我らに託されているような、そんな気がします。」
(「観光ガイドブック楽園見聞録」より)

「参道に立つと老杉の樹影に圧倒され、あたかも歴史のただ中にいる錯覚にとらわれ、遠くの政実軍の鬨の声が聞こえるような気がします。」
(「九戸村観光パンフレット」より)


政実はまだ生きている。人々の心に。

東北という土地において、己の野心がため、天下の情勢をつかめずに本家に遮二無二抗い、結局天下を敵に回して、検地に反対した一揆勢をかくまい、九戸城に立て籠り戦うが、豊臣軍に降伏。奥州三ノ迫にて首謀者一同斬首された。これが九戸政実という男の人生であった。

歴史というのは分からない。ただ、九戸政実がそこまで愚かな男だと私は思わない。いくら、城が堅牢であったとはいえ、5000の兵で65000の軍勢に三日間防衛するとはよほどの戦略であったに違いない。

政実自身、末期の南部家を支えた強き武人だったのだから・・・

 
aakunohe.jpg

東北の最果てから天を衝いた男がいた。
という事実をどれだけの人が知っていたでしょうか。

関東生まれ、東北在住の一高校生がある一つの小説に心を動かされました。
九戸政実だけではありません。
東北には、まだ中世の息吹きを感じれる場所がたくさんあるような気がします。



更新日:2006年頃
加筆修正:2021.6.3


【参考文献】
・高橋克彦『天を衝く―秀吉に喧嘩を売った男九戸政実(1・2・3)』(講談社文庫、2004年)
・戸部正直著、今村義孝注『奥羽永慶軍記(上・下)』(人物往来社刊、1961年)
・『詳説日本史』(山川出版社、2004年)
・秋田魁新報社『秋田の城』(秋田魁新報社、1955年)
・秋田魁新報社地方部 編『古戦場 : 秋田の合戦史』(秋田魁新報社、1981年)
・九戸村観光協会「九戸村観光パンフレット」
・カシオペア連邦観光事業実行委員会「楽園見聞録・カシオペア連邦」

 
bottom of page