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秋田実季の杉材運上について
拙稿「豊臣政権期における杉材運上の歴史的考察-出羽国秋田氏を事例として- 」を加筆修正の上、掲示したものである。2012年12月8日に社会経済史学会中四国部会松山大会(於松山大学東本館7階)にて内容を抜粋報告した。
1、はじめに
豊臣政権は文禄二年(1593)から慶長四年(1599)にかけて出羽国秋田氏に杉材運上を命じ、その費用は秋田氏領内に設定された太閤蔵入地の収入によって賄われた。
これら杉材運上に関する史料は「秋田家文書」に詳細に記されている。
『青森県史』によると「秋田家文書」は中世から近世にかけて秋田安東家に伝来してきた「秋田家史料」の一部であり、子爵秋田重季によって昭和十四年(1939)東北帝国大学法文学部史料調査部に各種伝領品が寄託された。翌年、教授古田良一氏のもと寄託に尽力した講師喜田貞吉と史料整理を担当した法文学部国史研究室嘱託大島正隆らによって『秋田家蔵品展観目録並解説』を発刊した。現在、文書史料は国立大学法人東北大学付属図書館で所蔵しており、同館が整理した『秋田家史料目録』(東北大学付属図書館蔵古文書シリーズ2、2001年)に基づいて「秋田家史料データベース」化されておりウェブを通して閲覧することができる(註1)。
これまで秋田氏による杉材運上の研究は古田良一氏(註2)、山口徹氏(註3)、山口啓二氏(註4)、渡辺信夫氏(註5)、長谷川成一氏(註6)、中川和明氏(註7)らによって海運、太閤蔵入地、商品流通、軍役などの点において深められてきた。
しかしながら、秋田氏による杉材運上については、未だいくつかの疑問点が残されている。その一つが太閤蔵入地についての問題である。秋田氏領内には約26.000石の太閤蔵入地が設定され(註8)、秋田氏と同じような太閤蔵入地が北出羽のすべての大名領に設定されたと言われている(註9)。山口啓二氏は太閤蔵入地を概観する史料として「慶長三年蔵納目録」(註10)を有効な史料として挙げている。しかし、少なくとも26.000石あるべきはずの出羽国の蔵入地高がこの史料には記載されていない。
秋田氏領内に設定された太閤蔵入地とはどのようなものであったのだろうか。今一度、秋田氏による杉材運上をはじめ、北出羽に設置された太閤蔵入地について検討を重ねる必要があると思う。本研究が豊臣政権構造の特質の一つ(註11)である太閤蔵入地の果たした役割を解明していくための一端につながれば幸いである。
(註1)『青森県史』資料編中世2一五六頁(青森県、2005年)。
(註2)古田良一「秋田家文書による文禄・慶長初期北國海運の研究(一)・(二)」(『社会経済史学』1113・1114、1941年)。
(註3)山口徹「小浜・敦賀における近世初期豪商の存在形態―幕藩体制の成立に関して―」(『日本海海運史の研究・復刻版』福井県立図書館、1972年、初出は1960年)。
(註4)山口啓二「豊臣政権の成立と領主経済の構造」(『日本経済史大系3近世上』東京大学出版会、1965年)。
(註5)渡辺信夫『幕藩制確立期の商品流通』(柏書房、1966年)。
(註6)長谷川成一「文禄・慶長期津軽氏の復元的考察」(『津軽藩の基礎的研究』国書刊行会、1984年)。
(註7)中川和明「伏見作事板の廻漕と軍役(1)・(2)」(『弘前大学国史研究』七八・七九、1985年)。
(註8)本稿第一章【史料1】を参照。
(註9)加藤民夫「北奥羽における石高制の成立」(『秋大史学』二四、1977年)。
(註10)『大日本租税志中篇』585頁から592頁(思文閣出版、1971年)所収。但し山口氏はこの史料について、原本が不明であり、同類の伝写本が他にも存在しており若干の記述数字の変動があるなど考証を経る必要があると注意している。
(註11)山口啓二「豊臣政権の構造」(『論集日本歴史6・織豊政権』115頁から116頁、有精堂出版、一九七四年、初出は一九六四年)によると、山口啓二氏は豊臣政権の構造的特質について、封建国家権力、豊臣大名の性格、豊臣氏の蔵入地についての性格の三点を挙げている。
1、豊臣政権による奥羽支配と太閤蔵入地の設定
(1)奥州仕置
豊臣秀吉は天正十八年(1588)七月五日、相模国小田原の北条氏直を滅ぼし、8月9日には陸奥国会津黒川城において奥羽の諸大名に奥州仕置を行った。
渡辺信夫氏は奥州仕置について、豊臣秀吉の全国統一の最終過程であり、東北の幕藩体制成立の起点になったという点で評価している(註12)。奥州仕置の目的は、豊臣政権による奥羽諸大名への「当知行」の安堵、領国支配権の付与、諸大名妻子の在京、台所入・在京賄の確保の四点であり、豊臣政権と奥羽諸大名との間にヒエラルヒッシュな関係を成立させると同時に奥羽諸大名とその家臣との間に諸城の破却、家臣妻子の城下への移住を通じて両者の間にヒエラルキーの確立をさせることであり、その基本方針は「豊臣政権=奥羽諸大名=某家臣」という重層的なヒエラルキーの確立にあったと藤井譲治氏は述べている(註13)。
また渡辺氏によると、奥州仕置は宇都宮と会津黒川の二箇所で行われ、宇都宮では伊達政宗・最上義光・佐竹義重といった小田原征伐に参加した大名の知行が決定され、会津黒川では小田原不参加の奥羽諸大名の所領没収や大名権の不安定な中小大名領の検地実行という施策が決定されたという(註14)。
奥州仕置の何よりのねらいについて藤木久志氏は、伊達勢力圏の解体・再編にあったと述べている。陸奥国では白川義親・石川昭光・葛西晴信・大崎義隆の所領を没収し、会津を重臣の蒲生氏郷に与え、葛西・大崎旧領には直臣の木村義清・清久父子に置いた。一方の出羽国では武藤氏が治める庄内地方が上杉氏に与えられた他はほとんど変更が加えられなかったという(註15)。
(2)北出羽における太閤蔵入地の設定
このように奥州仕置は奥羽諸大名の明暗を分けた。
一見すると出羽国諸大名は、その多くが豊臣政権による所領没収の憂き目にあった陸奥国諸大名と比較して、平穏に戦国時代以来の旧領を安堵されたかに見えた。しかしながら北出羽では豊臣政権によって厳しい太閤検地が行われた。豊臣政権の検地奉行は前田利家・木村常陸介・大谷吉継であり、北出羽の大名である秋田氏、小野寺氏、戸沢氏らは検地によって知行を安堵される一方で、所領の三分の一にあたる領地を召し上げられた(註16)。これについて、藤木久志氏は、北出羽は豊臣政権の直轄地である太閤蔵入地が設定されるという重大な事態にさらされており、豊臣政権の直臣が新しい支配者として乗り込んできた陸奥国と同じようにもっとも厳しい豊臣化にさらされたと述べている(註17).。
【史料1】「豊臣秀吉朱印状写」(秋田家文書)(註18)
出羽國秋田郡之内貳万六千貳百四拾五石事、目録別紙有之、爲御代官被仰付候
条、速可令執沙汰候也、
天正十九年
正月十七日
湊安東太郎とのへ
【史料1】は秋田実季に交付された秀吉の朱印状写しである。
この書状によると秋田実季は出羽国秋田郡の内、26,245石の太閤蔵入地代官に任命されていることが分かる。また、同日付の朱印状で秋田実季は出羽国檜山郡全域ならびに秋田郡の一部、52.440石の知行を安堵されている(註19)。つまり秋田実季はおよそ五万二千石の大名として保証されると同時に、奥州仕置以前に領有していたおよそ二万六千石の所領を太閤蔵入地として没収され、その代官に任命されたことになる。
藤木久志氏によると、太閤蔵入地の設定は天正十七年(1589)、秋田氏の一族同士の争いの際に起きた、豊臣政権は秋田領没収を計画しており、北出羽に太閤蔵入地が設定されることは奥州仕置当初から構想されていた基本政策であったと述べており、そのねらいは北出羽の木材と金であったという(註20)。
ところで、天正十九年、三戸南部氏の一門であった九戸政実による南部信直への反乱を鎮圧するために、豊臣秀次を総大将に奥州再仕置軍が再度奥羽に進軍してきた。『奥羽永慶軍記』によると北出羽の諸大名も九戸への出兵を命じられ、秋田太郎実季・小野寺孫十郎義道・戸澤九郎盛安・仁賀保兵庫勝俊らが出陣している。その数は三万人余の軍勢で鹿角、浄法寺を越えて九戸へ出陣した(註21)。
奥州仕置は奥羽諸大名の独立支配を奪った。これら太閤蔵入地の設定や奥州再仕置軍としての軍役負担の事例を見ても、奥羽諸大名は豊臣政権に組み込まれることになり、両者の間にはヒエラルキーが確立した。
秋田氏が豊臣政権からはじめて杉材運上を命じられたのは秋田実季が太閤蔵入地代官に任命された二年後の文禄二年であった。それから慶長四年までの六年に及ぶ杉材運上は、太閤蔵入地からの収入によって行われたのである。
(註12)渡辺信夫「天正十八年の奥州仕置令について」(『東北大名の研究』412頁、吉川弘文館、1982年)。
(註13)藤井譲治「豊臣体制と秋田氏の領国支配―幕藩権力成立の前提―」(『日本史研究』120、1971年)。
(註14)註(12)前掲書、413頁。
(註15)藤木久志「中世奥羽の終末」(『中世奥羽の世界』220頁、東京大学出版会、1978年)。
(註16)『平成22年度企画展戦国時代の秋田秋田藩家蔵文書の世界』8頁(秋田県公文書館、2010年)。
(註17)註(15)前掲書、223頁から224頁。
(註18)『秋田市史』中世史料編188頁、268号文書(秋田市、1996年)。
(註19)註(18)前掲書、189頁、269号文書。
(註20)註(15)前掲書、224頁。
(註21)戸部一憨斎正直著(今村義孝校注)『奥羽永慶軍記復刻版』632頁(無明舎出版、2005年)。『奥羽永慶軍記』は天文より元和に至る東北全般の群雄争乱の歴史を描いた軍記物語で、出羽国雄勝郡横堀出身の戸部一憨斎正直によって元禄十一年に著された。
2、秋田氏による杉材運上
(1)船材木の供出と朝鮮出兵
文禄四年(1595)五月三日、秋田実季は天正十九年から文禄二年にかけての太閤蔵入地からの算用状を作成し豊臣政権に報告している。【史料2】はその算用状である。
【史料2】秋田之内御蔵入算用状之事(秋田家文書)(註22)
秋田之内御蔵入算用状之事
一、貳万六千貳百四拾四石八斗三升、天正十九年分高頭
内貳万千貳千三百廿壹石八斗三升、荒免
物成、参千九百廿三石、一ツ成半
一、貳万六千貳百四拾四石八斗三升、文禄元年高頭
内貳万千四十五石八斗三升、荒免
物成、五千百九拾九石、貳ツ成
一、貳万六千貳百四拾四石八斗三升、文禄二年高頭
内貳万千七百九十壹石三斗三升、荒免
物成、四千四百五十三石五斗、一ツ七分成
物成合、壹万三千五百七十五石五斗
右拂
一、八百五拾石、大あたけ壹艘之材木、羽柴孫四郎ニ相渡、入用、但鉄・つな
を・杣之飯米共ニ小帳在之
一、千四百五拾石、淀舟卅艘分材木、杣之飯米並秋田よりつるかまて舟賃とも
に小帳在之、
一、六千石、金子廿五枚たゝいま上申候但壹枚ニ付而貳百四十石替
はらい
合八千参百石
残而五千貳百七拾五石、我等預り也
右拂之小帳共何もあけ申候、此日付已前、御朱印小日記雖在之、重而御算用ニ
被相立間敷候、以上
文禄四年
五月三日 秋田藤太郎 判
長束大蔵殿 上申候目録ニ了判返仕候
増田衛門丞殿
淺彈正殿
民部卿法印
参
【史料2】によると天正十九年から文禄二年間にかけての太閤蔵入地からの収入によって支払われた費用は、大安宅船一艘分の材木供出に関わる諸費用、淀船三十艘の材木供出に関わる諸費用、金子二五枚の進上の三つであった。本節では秋田氏による大安宅船作事用材木供出について詳しく見ていきたい。
【史料3】「朝鮮陣爲御用意大船被仰付覚」(『太閤記』)(註23)
一、東は常陸より南海を経て、四國九州に至て、海に添たる國々、北は秋田坂
田より中国に至て其國々之高十萬石に付て、大船二艘宛、用意可有之事。
(中略)
一、蔵納は高十万石に付て、大船三艘、中船五艘宛、作り可申之事。
(中略)
天正十九年正月廿日 秀吉
朝鮮陣軍役之定
【史料3】の出典は『太閤記』である。校訂者の桑田忠親氏は『太閤記』について史書としては心細く誤も相当あると指摘しているが、『太閤記』の史料的価値について豊臣秀吉の伝記として纏まっており、豊臣氏関係の記録として頗る組織的にかつ細大洩さずその記事が整備されているかのような外貌を有していると評している(註24)。その点を踏まえて、豊臣政権による朝鮮出兵用の軍船建造を概観する史料として『太閤記』を参考史料としたい。
【史料3】によれば、東西は常陸より四国九州、南北は秋田から中国に至る国々については石高十万石について大船二艘の建造を命じられたことが分かる。また、太閤蔵入地については石高十万石について大船三艘、中船五艘の軍船建造が命じられたことが分かる。豊臣政権はこのような方法で諸国に軍船建造を命じた。
ところで『太閤記』の中には秋田という地名が登場しているが、秋田氏の石高は第一章で見てきたように約五万石であるため、軍船建造はなかったものと思われる。しかしながら、【史料2】の中で秋田氏は大安宅船一艘分の材木供出を行い、羽柴孫四郎(前田利長)に渡している。秋田氏が供出した大安宅船一艘分の材木の用途は、加賀前田家に命じられた大安宅船作事のための材木であった。以下、その流れを追って行きたい。
前田家に大安宅船の建造が命じられたのは、文禄元年秋のことであったという(註25)。渡邊世祐氏によると、利長の父である前田利家は朝鮮出兵準備のため肥前名護屋に在陣しており、利長が留守中の領国支配をしていたと述べている(註26)。前田利家は文禄元年十月十日、肥前名護屋より大安宅船建造に関して、在国している家臣の三輪藤兵衛に宛てた造船の催促状が残っている。
【史料4】「前田利家書状」一部(加能越古文叢)(註27)
追而従太閤様、大あたけ舟被仰付候、然者船木之事於奥能登相尋可被下置候、定而かくし可申候間、成其心得入念馳走尤候、以上、
【史料4】によると前田利家は三輪藤兵衛に大安宅船用の「船木」を奥能登に探させたことが分かる。この史料について渡邊氏は匿すものがあって奥能登からは容易に「舟木」を求められなかったと指摘している。それを裏付ける史料が【史料5】である。
【史料5】「豊臣秀吉朱印状」(秋田家文書)(註28)
大安宅作事、加賀宰相被仰付候、然者船木之事、於秋田大船壹艘分申付可馳走
候、猶加賀宰相可申候也
十一月八日 秀吉朱印
秋田太郎とのへ
【史料5】は秋田実季に宛てられた、豊臣秀吉の朱印状で大安宅船の作事を加賀前田家に命じたので、その「船木」を秋田に於いて一艘分申し付けるという内容である。【史料4】【史料5】とも大安宅船作事材木について「船木」と記載されていることから、当時はこのような「船木」という表現をしていたのだろう。【史料5】から、渡邊氏の研究によるとすれば前田利家が奥能登で求めさせた「船木」が思うように得られなかったので、秋田実季に前田家建造分の大安宅船作事用材木運上が命じられたのではないだろうか。前田家が建造を命じられた大安宅船はいったい何艘であったのだろうか。【史料6】を元に検討していきたい。
【史料6】「前田利家書状」(加能越古文叢)(註29)
尚々かこの事、能登・かゝ・越中三ヶ國へ可申付候、以上、来三月御渡海相定
に付て、船など調として大坂へ逸兵へ小右衛門を遣候、然者種善坊、其方両人
早々大坂へ越候て用の事共相調可越候、此書付参着次第、はや其地を出候はて
は、用立間敷候、其心得専用候、つな・いかり・かこの事、船五そうの分わり
付可給由、五郎兵へ一書にて遣候、彦右衛門・大井久兵衛なと、早々尾山へ越
候て、五郎兵衛令談合、一刻も急わり合可申上候、二月のすへニは大坂よりな
こやへ越候はては用ニ不立事候間、よる・ひる共なく可申付候、今度程のせん
どは後さき、又もあるましく候ニ、在所ニ有なから、此方之儀をは皆々由斷と
相見へ候、命なからへ歸朝候はゝ如何可有候哉、ちと精ニ入尤ニ候、謹言、
正月三日 利家
三輪藤兵衛殿
【史料6】は明けて文禄二年正月、【史料4】と同様に前田利家が肥前名護屋より家臣の三輪藤兵衛に宛てた書状であるが、水夫を能登・加賀・越中から徴発する事、三月の朝鮮渡海に併せて船を整える事などに加えて船五艘の分が割られている。
【史料7】「前田利長書状」(秋田家文書)(註30)
付之、帷子五つ門生絹貳進入申候、書状之給迄候、以上、態令申候、仍杉の大
割板用所付而取ニ下申候、藤太郎殿御留守成共、急度御馳走頼申候、上方へ用所候者被申越候、尚使者口上ニ申含候、恐々謹言、
四月十日 利長(花押)
秋田右近殿
【史料7】は前田利長が秋田実季の家老である秋田右近に宛てた書状で、杉の大割板を求めるために秋田へ船を下すので、秋田実季が留守であってもよろしく取り計らうようにとの内容である。この際に前田利長は進物として帷子や生絹を贈っているなど、かなり気を遣っている。この杉の大割板はおそらく【史料5】に登場する大安宅船作事用の「船木」であると思われる。
【史料2】より、秋田実季が前田利長に渡した大安宅船一艘分の材木供出費用は杉材伐採用の鉄・綱の購入費、杣の飯代等、850石であることが分かるが輸送費が入っていない。この点については【史料7】中に杉の大割板を求めるために秋田へ船を下すという記述があることから輸送費は前田家側が支払ったものと思われる。
この前田家への大安宅船一艘分の杉材供出が、秋田実季にとって最初の杉材供出となり、これ以降長期に渡る膨大な量の杉材運上を豊臣政権から命じられることになるのだが、おそらくこれきっかけにして、秋田杉の価値が高まって、以降の杉材運上につながったのではないだろうか。それを裏付けるのが【史料8】である。
【史料8】「豊臣秀吉朱印状」(秋田家文書)(註31)
河船材木至敦賀早々到来、殊杉板同前ニ相届候由悦思食候、於海上船少々損之
由不及是非候、然者来春も材木之儀可被仰付候間、先根伐を行船着可仕置候、
来春大鋸杣可被遣候條、其次第木取申付可指上候、冬中ニ根切行可然候由被聞
由候間、如此被仰遣候、尚長束大蔵大輔、佐々淡路守可申候也
十月十八日 朱印(秀吉)
秋田藤太郎とのへ
【史料8】は文禄三年十月の豊臣秀吉朱印状で、秋田実季によって運上された河船用杉材が越前敦賀に到着したことを喜び、翌春の材木運上についても励むよう命じている内容である。「河船材木」は【史料2】に登場する「淀船三〇艘分材木」の事であるそうだ(註32)。さらに秀吉は杉板運上の際、杉材の伐りだしにあたって、根伐りを行うこと、大鋸杣が派遣され次第木を伐ること、冬に根切りを行うことなど数点の注文をつけている。
大鋸杣は、伐採した原木から同じ厚さの板材を切り出す大鋸を利用する杣のことであり、大鋸杣の派遣によって秋田地方に大鋸がもたらされ林業上の技術進歩に貢献した(註33)。大鋸杣は専門技術者集団であり、天正二十年(1592)近江国では豊臣秀次によって大鋸引の諸役が免除されたことが「豊臣秀次朱印状」(註34)から確認できる。このことは豊臣政権の意向によって諸役を免除されて、軍船造船や大規模城郭普請に必要であった、諸国の木材の伐りだしに関わったのであろう。
ところで文禄二年三月十日、朝鮮出兵に際して牧使城の陣立書が出された。秋田実季は木村常陸介の一手として一三四人が徴発された(註35)。三鬼清一郎氏は、豊臣政権の軍役人数は石高制によって決められており、文禄元年における朝鮮出兵の軍役では、外様大名を含めた全領主階級を包摂したが、近畿以東の諸大名は「朝鮮国都表出勢の衆」として名護屋に在陣し、状況に応じて渡海するべきものとされており、その軍役は朝鮮へ渡海するべき西国大名と比較しても軽かったと指摘している。同氏はその理由について、地理的条件のほか、小田原の役の出陣を考慮して軽減されたのであろうと述べている。(註36)
しかしこれらの豊臣政権下に行われた朝鮮出兵に関する東国大名の負担は決して軽くはなかった事が、秋田氏による杉材供出や前田家の軍船建造といった本節の事例で分かるだろう。【史料8】以降、豊臣政権が秋田氏に課した杉材運上は船材木運上から伏見城作事用板として姿を変えることになる。
(2)伏見城作事用板の供出
文禄四年(1595)以降の杉材供出の用途は船作事用材伏見城作事用材木になった。慶長二年十一月、秋田実季は文禄三年から慶長元年にかけての太閤蔵入地からの算用状を作成し豊臣政権に報告している。これが【史料9】である。
【史料9】「秋田内御蔵米御算用状之事」(秋田藩家蔵文書・芹田家文書)(註37)
秋田内御蔵米御算用状之事
一、五千貳百七拾五石五斗、文禄貳年の払残候米
一、五千百九十九石五斗、同三年ニ納物成
一、四千九百八十五石、同四年ニ納物成
一、五千百九十九石五斗、慶長元年ニ納物成
合貳万六百五十九石五斗
右はらい
一、七百九拾四石、御はし板八百間、秋田ニ而
一、五万三千石、板三百五拾間、なかさ貳間、あつさ五寸、はは木有たけ、
秋田藤太郎
一、貳万石、板三拾貳間、同、御蔵入
一、四万五千石、板百六拾間、同、戸澤九郎五郎
一、八千八百石、板六拾間、同、本堂源七郎
一、四千石、板三拾三間、同、六郷兵庫
一、三万三千石、板百四拾五間、同、小野寺孫十郎
一、壹万五千石、板六拾六間、同、湯沢増田
右高拾七万八千八百石
右合板数九百四拾六間
【史料9】は【史料2】に次いで豊臣政権に報告された太閤蔵入地算用状であるが、この二つの史料を比較すると、大幅に変わったことが三点ある。一点目は収入が物成のみになったことである。文禄二年に支払われ余った秋田実季預かりの米は5,275石で【史料2】とも一致しているが、文禄三年から慶長元年にかけての石高は物成のみしか記載されていない。この事はこれによって文禄四年以降の杉材運上は太閤蔵入地から賄われた物成から支払われたことが分かる。二点目は支出の項目が「御はし板」と変わったことである。この点については後述する。三点目は秋田氏周辺の隣郡衆にも杉材運上が課せられたことであるが、隣郡衆の運上については本章第三節で詳しく追っていきたい。
従来「御はし板」と伏見城作事板は同様のものと考えられてきた。古田氏は、中央方面では文禄三年初頭から伏見城作事のため各地諸侯に命じて大規模な人夫徴用と材木採取が行われていることを理由に橋板輸送も伏見城作事と同じ目的のものであるとした(註38)。これに対して中川氏は文禄四年以降の杉板をすべて伏見城作事板と呼ぶことには問題があるとして京畿大地震について考察を行い、「御はし板」は伏見城と宇治川を隔てた向島城を結ぶ橋板であったことを明らかにした。(註39)
本稿ではその点を踏まえつつ「御はし板」を伏見城作事用板の一部と考える。
こうして文禄四年以降、秋田氏による伏見城作事用板の運上がはじまったのだが、秋田氏は文禄四年から慶長四年までの計五回、入用費用および運賃について「於秋田御材木入用帳」(秋田家文書)としてまとめている(註40)。これをいくつかの表にまとめてみた。
【表1】は文禄四年から慶長四年にかけての運上板数と支払い高の変遷である。文禄四年の杉材運上は秋田実季運上の板が八〇〇間であり、それに関わる太閤蔵入地からの支払い高は1,666石7斗3升であった。一方で翌慶長元年の杉材運上は秋田実季運上板に加えて、隣郡衆の運上板三四七間が加えられた。そのため秋田実季運上板の板数は二二五間と減少したが、太閤蔵入地からの支払い高は約三倍に増加している。これについて『秋田市史』によると、文禄四年の時点では杉材の厚さ・幅に関係なく、長さ二間未満の板材一枚を一間として算定しているが、慶長元年以降になると長さ・厚さに関係なく幅一尺六寸の杉板を標準に杉板四枚を一間とすることに変わったという。(註41)。このように表記上の板数は減少しているが、文禄四年と慶長元年では「間」の単位が違うため五年分の杉材運上についての板数増減の比較はできない。そこで板数の増減を比較する単位として太閤蔵入地より支払われた石高の変遷を【表1】をもと作成したのが【表2】である。慶長元年をピークとしていることが分かる。
【表3】は主な太閤蔵入地支払いの内訳である。杣の飯代、杉材を切り出すために使われるよきやかすがいの原料となる鉄などの購入費用、杉材の運賃という各項目の中で費用の多くを占める項目は杉材を運ぶための運賃であった。文禄四年の「於秋田音材木入用帳」には「板八百間、つるかへのぼせ大谷刑部少輔ニ渡候、但秋田よりつるかまて舟賃之事」(註42)とあるように運上板は越前敦賀の大谷吉継に渡され、この太閤蔵入地賄いの輸送費は秋田から敦賀までであった。秋田から敦賀までの杉材運上の実際の輸送を行ったのは秋田氏や大谷氏ではなく、商人であった。「於秋田御材木入用帳」には秋田氏から商人への杉材受け渡しの記録が詳細に残されているが、これをまとめたのが【表4】である。
【表4】は文禄四年から慶長四年まで秋田氏の杉材運上に関わった商人の出身国別の表である。これを概観すると敦賀をはじめとする越前国など北陸地方の商人が他地域と比較すれば圧倒的に多く杉材輸送に関わっている。山口徹氏の研究によると、秋田氏の伏見城作事用板の輸送費は金子で支払われ、「金子一枚あたり二四〇石替」という当時としてはかなり高い比率で交換された。この交換比率は豊臣政権が設定したもので越前敦賀の道川氏や高嶋屋、若狭小浜の組屋といった北陸地方の商人はこの交換比率の差を利用し莫大な利益を上げる一方で豊臣政権に対して朝鮮出兵の軍需物資を提供する近世初期豪商の成立に貢献したという。(註43)高嶋屋については本稿第三章でも少し補足を加えたい。
以上が秋田実季の杉材運上の詳細な点である。
(註22)註(18)前掲書、229頁から230頁、303号文書。
(註23)小瀬甫庵著(桑田忠親校訂)『太閤記(下)』67頁から68頁(岩波文庫、1984年)。
(註24)小瀬甫庵著(桑田忠親校訂)『太閤記(上)』30頁(岩波文庫、1984年)。
(註25)古田良一「秋田家文書による文禄・慶長初期北國海運の研究(一)」(『社会経済史学』1113、316頁、1941年)。
(註26)渡邊世祐「朝鮮役と我が造船の発達」(『史学雑誌』4615、584頁、1935年)。
(註27)註(26)前掲書、五八四頁。
(註28)註(18)前掲書、二一一頁から二一二頁、281号文書。
(註29)註(26)前掲書、五八四頁。
(註30)註(18)前掲書、二一四頁、283号文書。
(註31)註(18)前掲書、二二四頁、297号文書。
(32)『秋田市史』第二巻中世通史編三七八頁(秋田市、一九九年)。
(33)註(32)前掲書、三七九頁。
(34)「古文書纂(東京大学史料編纂所影写本)」(『新修彦根市史』第五巻史料編古代・中世七五七頁から七五八頁、彦根市、二〇〇一年)所収。大鋸引をはじめ鍛治・番匠などの諸職人の諸役が免除された。
(35)『大日本古文書家わけ第二・浅野家文書』四六八頁(東京帝国大学、一九〇五年)。
(36)三鬼清一郎「太閤検地と朝鮮出兵」(『岩波講座日本歴史9』近世1、九八頁、一九七五年)。
(37)註(18)前掲書、二九一頁、375号文書。
(38)註(25)前掲書、三一八頁。
(39)中川和明「伏見作事板の廻漕と軍役(2)」(『弘前大学国史研究』七九、七六頁から七九頁、一九八五年)。
(40)註(18)前掲書、320号文書、335号文書、374号文書、412号文書、438号文書。
(41)註(32)前掲書、三八〇頁。
(42)註(18)前掲書、二四一頁、320号文書。
(43)註(3)前掲書。
完
更新日:2006年頃
加筆修正:2021.6.3
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